家出仏
大仏がいなくなった。
そんな話を、行きつけのバーで聞いた。
なんでも、ここから電車で二時間程の古都にある有名な大仏が行方不明なのだという。
大仏など盗んだところですぐに足がつくだろうに、一体誰がそんな事をと呟くと、主は
――いやいや。
と首を振る。
――盗まれたんじゃあない、家出ですよ。
グラスをふきながら、
――大仏というのはね、ときどき、いなくなるものなのです。
当たり前のように言われれば、そういうものか、という気もしてくる。
それでは、なぜ今更こんなに大ごとになっているかといえば、「家出」の期間があまりにも長すぎるからだという。
いつもなら二週間程度で帰るのに、今回は一カ月を過ぎても未だにお戻りにならない。それだから、大仏の家出に慣れきった地元の人々も、もしかすると今回はどこぞの不心得者にさらわれたのではあるまいかと心配し、捜索隊を出そうかという騒ぎようなのだという。
そもそも、一カ月もの間、国宝の大仏の不在がニュースにならなかった方が不思議だが、それだけ世間が物事に慣れているということだろう。大仏の家出に驚く人間は、今や私くらいなのかもしれない。
そんなことを思いつつ家路に着くと、古い我が家の前に、闇にまぎれてなにやら黒い塊があった。
行方不明の大仏であった。
厚い耳たぶも福々しく、穏やかな顔でアスファルトの上に横たわっておられる。いわゆる「涅槃」の姿勢である。
近寄って声をかけると、大仏はぱちりと目を開けた。途端、金属細工だった光背がまばゆい光となり、夜の闇を照らした。周囲が昼のような明るさになり眩しいことこの上ない。何事かと家々の窓が開く音があちらこちらから聞こえ始めたので、慌てて光を抑えてもらえるようお願いした。大仏はすまなそうな顔をして光背を消した。
それにしても、なぜ一カ月以上にも渡って不在にしていたのか。
訊けば、世間の救済ついでの物見遊山であったという。方々を渡り歩いて迷える恋人たちや悩める受験生、苦悩する社会人、そういった一切衆生に「色即是空」を教え、彼らの悩みや迷いなどはかない一生の一瞬の影にすぎぬと教え、悟るよう促した。その道程の最中には高名な仏閣を訪れ、もう一人の有名大仏に会いに行き、親交を深めてきたのだという。
仏の写し姿とはいえ、昨今の人々に教えを広めるのには骨が折れたようである。また、こんな世だからであろうか、彼が大仏と分かるや否や、驚くほどの人々が彼を頼り、救いを乞い、願いを携えて押しかけたのだという。おかげでいつになく長期の家出となってしまったと、大仏はふっふっ、と穏やかに笑った。
私は、それは大変なお勤めでございましたと労う一方、恋人は恋を捨て受験生は受験を止め社会人は職を捨て、みなして仏門に下ったのではないかと余計な心配をしてしまった。
――さて。
大仏は呟いて私を見た。
――あなたの家の前で休ませていただいて、大変楽になった。皆も心配しているし、もう行くことにしましょう。
ついては、ひと時の休息の礼に何か願いを叶えようという。
大仏がそんな事をしていいのかはさておき、さしあたっての望みもない。仕方が無いので、どんなことでもいいので何かいいことがありますように、とお願いした。
――それでいいのですか。
目を丸くした大仏、というものは初めて見た。私は
――はぁ。
と頷く。大仏は、
――なんとなんと、欲のないこと。
ふっふっ、と穏やかに笑った。
――それでは、明日をお楽しみに。
大仏はすっと立ち上がった。体は普通の人間と同じ大きさであるのに、不意に存在感が増した。そこだけ神々しい光が満ち、周囲の闇を押しのけ、道を示すようであった。
あの、古都にそびえる大仏そのものだった。
彼は向き直ると私に合掌し、深く頭を下げた。そのまま振り返り、軽やかな足取りで闇の中に消えた。
大仏の姿が見えなくなってしばらくしてから、私は自分が合掌していることに気付いた。
茶か何か出せばよかったと、今更のように思った。
翌朝、目が覚めてから辺りを見回しても特別変わったことは起きていなかった。ただ、左手にあった傷、子供の頃に鉛筆を刺してしまった痕が、すっかりきれいに消えていた。
奇跡の度合いとは、信仰心の大きさによるものであるらしい。
テレビをつけてみると、ニュースでは大仏の帰還が取り上げられていた。
無事に夜の間に故郷へついたようである。観光案内で見るのと同じ姿で鎮座し、穏やかな笑みで衆生を見守っておられる。
今日も明日も、大仏は毎日訪れる観光客のカメラに収まり、悩みを聞き、救いを与えるのだろう。そして余りに世の中の悩みが濃くなれば、再び家出するに違いない。
また家に寄られることがあれば、乳粥くらいはお出ししようと思う。