目眩
いつものように電車を降り、改札を抜け駅前商店街に向けて歩きだした途端、世界がぐらり、と傾いた。
ぐっと身を固くし気を落ち着ける十数秒の間に正常な感覚が戻る。ふっと力を抜き辺りを見ると、周りは平気な顔ですたすたと歩いて行く。
おかしいのは、世界ではなく私の方であるらしい。
疲れのせいだろうか。重い体を引きずり再び数歩行くと、また、踏み出す足元がぐにゃりと歪む。どうやら本格的に目眩が起こっているようである。転ばぬよう、いつも以上に注意しながら、私は通いなれた夜道を急ぐ。
明日もまた仕事である。
目眩というもの、それ自体は私にとって馴染み深いものであった。まだ両の手で数えられる歳だったろう、その頃には既に、体がふわふわと浮くような感覚は知っていたと思う。
最も、それはごく軽度のものであったし、時間もせいぜい数秒、忘れた頃にふと起こる程度であった。
それが、ここしばらくは毎日のように起こる。程度も幼い頃のそれとは比べ物にならず、時には何かに掴まらねば己の立ち位置を確保できない時もある。
ただ、ぐらぐらと定まらぬ大地に翻弄されるのは、それはそれで愉快でもあった。自分の力ではどうにもできぬものに抗えずにいる不快感はなかった。
夜道を行く人の波は途絶え、いつの間にか私は一人になっていた。満月にほど近い月が、こうこうと周囲を照らし出している。行く手の左は竹林、右手は先ほどからしばらく畑が続いている。不安定な体を楽しみながら、私は夜を行く。
涼風に竹林がざわざわと揺れた。
不意に足元が大きく傾き、踏み出し損ねた足が宙を舞った。辛うじて転倒は免れたものの、大きく膝をつき、私は道の上に座り込む格好となった。打ちつけた両膝がじんじんと痛む。
目眩はとまらない。私は両手をついて落ち着こうとする。世界は、いよいよ速度を増し、傾き続ける。
ちがう、これは、目眩ではない。
唐突にそんな思いが脳裏をよぎった。
そうだ、幼い頃、初めて目眩というものを知った時。
私は、それが自身の体内で起こる異変なのだとは思わなかった。
世界の動き――地球の自転を、何かの拍子に体が感じ取ったのだと、そう思っていたのだ。
この星と、自分が、確かにつながっているという実感。
それこそが、めまい。
そうだよ、と、左横の竹林から声がした。
――地に根を張るものには、当たり前のこと。
――ただ、お前たちが気づかぬだけで。
ざわり、と竹林が震えた。月が隠れ闇が濃くなった。土の香と草いきれがぷんと強く香った。
最早目の前に映るものに意味はなく、全身が一つの感覚器官となる。
ごうごうと、とてつもない速さで回転する宇宙の独楽の一部となり、その速度を感じている。
起き上がることもかなわず、私は一人、地に伏して笑った。
竹林から、道端から、畑から、どっと笑い声が湧きあがった。