36 あの日
「プライセル子爵令嬢をロメーヌの泉に連れて行きたい?」
「うんっ、そうなの。オリヴァーとはよく遊びに行くけど、フリーデはまだ連れて行ってあげたことがなくて……」
フリーデから秘密の場所と聞かれてヘルガとオリヴァーはすぐにロメーヌの泉が頭に浮かんだ。
使用人も最低限しか連れて行くことができないあの場所。
それはたしかに秘密の場所で、父に許可をもらって連れて行ってあげなければとヘルガは使命感に燃えていた。
それに彼女もすごく行きたそうにしていたのだ。
きっと良い思い出になるに違いない。
「だから、お願いです。お父さま、一生のお願い、お願い!」
「えー……泉か……うーん……泉ね……」
しかし父はとても渋い顔をして、膝に乗せたヘルガの頭をよしよしとなでている。
「お願い、お願い、おねがーい!」
「うーん。……まぁ、そうだね。あそこなら……まぁ」
ヘルガが父にしがみついてお願いすると、彼はいろいろ考えた末に、渋々ながら了承したのだった。
三人で泉に向かう前日、ヘルガは楽しみすぎて眠ることができずに、すこし寝不足だったけれど馬車に乗り込んだ時からすでに楽しかった。
ロメーヌの泉でオリヴァーと二人で遊ぶのも楽しいけれど三人で遊ぶのはもっと楽しいに決まっている。
それにフリーデがあの泉の光景を見たらきっと素敵だと笑って喜ぶと思っていた。
だから馬車に乗ってヘルガを真ん中にして三人で手をつないで馬車に揺られて、すこし歩きにくい森の中をずんずんと進んでいった。
「すごく、きれいです……ヘルガさま、オリヴァーさま」
フリーデはヘルガとつないだ手をぎゅっと握って、圧倒された様子で泉を眺めていた。
どこまでも澄み切った泉に、優雅に泳ぐ白鳥。
この場所は生い茂る草木まで何もかも特別で、魔獣の白鳥たちは風の魔法を扱うことができる。
あるときヘルガが、オリヴァーと遊んでいて勢いあまって泉に落ちたときも白鳥たちが寄ってきて魔法で浮かせて助けてくれたのだ。
そんな特別な場所。
「そうでしょ。ここが秘密の場所、私たちの大事な場所です」
「俺もここ好きなんだ。森の中って危ないからって入らせてもらえないけどここは特別だもんな」
ヘルガはオリヴァーの言葉にうんうんと頷いて、水から上がってやってきた白鳥に小さな淑女礼をする。
それからいつもの通りに「場所をお借りします」と丁寧に言って挨拶を交わす。
それを見て、フリーデはきょとんとしてからさらに興奮した様子で「すごいですっ!」とキラキラとした瞳をヘルガに向けた。
「魔獣なんですよね? それなのにあんなふうに言葉がわかるなんて、すごいっ、素敵っ私もこの場所が大好きになりました!」
「ふふっ、もう? 早いですね」
「そうだぞ。もっとこの泉には面白いところが山ほどあるぞ」
ヘルガたちは早速走り出す。泉のまわりの開けた芝生の上を駆けていく。
オリヴァーと二人で手を引いて、楽しい場所に連れて行く。
泉の浅くて水遊びできるところ、年季の入った小さなガゼボ、たまに野生動物が顔を出している茂み。
そういう魅力的なところを案内して、ヘルガもオリヴァーも自慢げだ。
そしてフリーデがいちいち新鮮で良い反応を返してくれるのでフリーデのことがもっと好きになった。
フリーデがいつも持っているバスケットから、今日のために焼いてくれたクッキーを出して、三人でテーブルを囲んでそれを食べる。
彼女は将来、ヘルガの侍女になる予定なのだ。
いろいろなことを学んでいて、お菓子も焼ける。彼女は頑張っていてすごいのだとなぜかヘルガも誇らしくなった。
「おいしいですね、オリヴァー」
「ああ、んまい」
「そうでしょう、力作なんです! 今日、お二人が私のために秘密の場所を教えてくれるって、聞いて。居ても立っても居られなくて私――」
ふと、ドサリという何か重たいものが落ちた音がした。
一番最初にその音に気がついたのはフリーデだったと思う。
彼女は、ふと振り返った。
ヘルガはフリーデの言葉が途切れたことによって、不思議に思って視線を上げた。
すると見慣れない男性が三名、ガゼボの入り口から一番近い座っているフリーデごしに見えた。
先ほどまでガゼボの外に控えていた侍女の姿は見当たらず、見知らぬ大人三人はヘルガたちをじっと見つめている。
彼らは暗い色のローブを着て深いフードをかぶっていて顔が見えないが、その眼光だけは鋭く射貫くような瞳だった。
「え?」
疑問の声を上げたのはフリーデだ。ヘルガは驚いてクッキーを床に落としていた。
バサバサバサッと白鳥たちが羽ばたく音がする。「クァッー!!」と鋭い鳴き声がした。
一番前にいる男の手にはぬらりと鈍く光るナイフが握られていて、振り返ったフリーデの鎖骨あたりをドッと貫いた。
「アグッ」
引き抜かれるとフリーデは、テーブルにしたたかに頭を打ち付けてそのままずるりと椅子から滑り落ちていく。
とっさにヘルガは彼女の手をつかもうと手を伸ばす。
「ヘルガッ!」
しかし今度は真横からオリヴァーに激突されて、背後でドカンと音が鳴った。
魔法での攻撃だった。
椅子から転がり落ちてヘルガは目が回って、それでも呆然と目の前の光景を見つめていた。
床に落ちたフリーデから赤い液体がだくだくと流れ広がる。
それを踏んでガゼボの中に侵入してくる男たち。
ヘルガよりも少し大きなオリヴァーに抱きすくめられて、背後のガゼボの壁に体を押しつけられる。
彼の金髪が頬をなでて、彼が酷く震えているのが手に取るようにわかる。オリヴァーの肩口越しに、ナイフを振りかぶる男の影。
(このままじゃ、オリヴァーも)
そう思ってもできることはない、必死になってオリヴァーを抱きしめて男を睨みつけることしかできない。
振り落とされたその瞬間、パァンと破裂するような音が鳴って男が真横へと吹き飛んだ。
「カッッ!!」
「クァッ!!」
「シューッ!」
威嚇音を鳴らしながら白鳥たちが飛来する。
男たちは混乱しながらも白鳥に応戦するが、魔法も利かなければ刃の届かない場所からの攻撃だ。
次々に、血を吹き出し、叫び声を上げて倒れていく様は現実味がなくて、けれども心臓は酷く鼓動していた。
今にも泣き出しそうだった。涙がにじんで、どうしようもなかった。
「う゛」
「だいっ、大丈夫、ヘルガ!」
「おり、う゛ぁ」
「俺が守る! 誓って、俺が守る! 君をっ」
強く骨が軋むほど、抱きしめられて、ヘルガはそれを信じた。
そうだ。守ってくれる彼は、ヘルガのそばにいてくれる。
ヘルガに兄弟は居ないけれど、兄のような存在は居るのだ。ずっと一緒に居て退屈も楽しいことも喧嘩もしてくれる大切な人が居る。
そして彼は、ヘルガを捨て身でも守ってくれる。決して嘘はつかない。
それは今ここにある事実だ。
彼はヘルガよりも先に殺されるかもしれなかった。
それでも守ってくれた。
ならばヘルガは、ヘルガを守る彼を守らなくては。ヘルガより先に危険な目にあう人のためにできることをして助けなければ。
父の、とても優しい魔法が頭にひらめいた。
練習中で、退屈で楽しくないと思っていた魔法だったけれど使えるなら。
(できることがあるならっ、大切な人を私も守りたい……!)
「お、オリヴァー、フリーデ! フリーデをっ」
「……?」
「わる、わるいひとは、倒して、倒してくれたん、白鳥が、だから、フリーデをっ!!」
ポケットから水の魔法具を取り出す。
気持ちを決めても涙は止まらないし、足はろくに動かない。
それでもヘルガは必死だった。




