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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

盾と羽根ペン~世界を救った裏方二人の新しい日常~

作者: 鶏ニンジャ
掲載日:2026/02/25

「ふぅ……平和だねぇ……」


田舎の村、その門の前。

熊のように大きな男が、ぽつんと置かれた椅子に腰を下ろしている。

どこにでもいる村人のような、飾り気のない服装だ。


だが、彼の傍らには、のどかな村には不釣り合いなほど重厚な、設置型の鉄製の盾が置かれていた。


――英雄同盟軍規・第一条。

「我々はいかなる時、いかなる場所にあっても民の平穏を守り抜くために戦うものとする」


盾の裏に深く刻まれた文字。

彼はそれを指先でなぞりながら、過ぎ去った日々を思い出す。


忘れようとしても消えはしない、泥にまみれた栄光の記憶。

だが、彼はその熱い思いに無理やり蓋をした。


「天下泰平、言うことなし……ってか」


男は右腕を吊る三角巾のズレを直し、呟く。

しかし、その眼光は鋭い。


わずかな獣の気配も逃さぬよう、常に周囲を警戒している。

その目は、まぎれもなく歴戦の兵士のものだった。


「盾の旦那! 差し入れだ」


そこに声をかけてきたのは、一人の農民だ。


「おう、もうそんな時間か」


男の顔から険しさがスッと消え、穏やかな笑みが浮かぶ。


「おらのおっかぁ特製の弁当だ。しっかり食って、村を守ってくれよな」


農民がかごを差し出す。

中には、焼き立てのパンと美味しそうな果物が入っていた。

麦の香ばしい香りと、みずみずしい果実はご馳走以外の何物でもない。


「おう、ありがたくいただくぜ」


男は重い盾を地面に下ろすと、その場にどかっと座り込む。

そして、盾をテーブル代わりにし、その上に弁当を広げた。


「精霊よ。感謝します」


短い挨拶の後、彼は食事に豪快にかぶりつく。

質素ながら、作り手の体温が伝わってくるような温かな味だ。


「しっかし、盾の旦那は変わりもんだよなぁ」


農民が、先ほどまで男が座っていた椅子に腰をかけて言う。


「そうか?」

「だって、その盾は旦那が軍隊時代から使ってた大事なもんなんだろ? もう少し大切に扱っても良さそうなもんだけどよ」

「いやいや、こいつの使い方はこれでいいんだよ」


男は盾の表面を愛おしそうに撫でる。

分厚い鉄の表面には、戦火を潜り抜けてきた無数の傷が刻まれていた。


「戦場じゃ、平らな場所なんて贅沢はいってられないからな。こういう台の代わりになって便利だったんだぜ」


男は、ふと戦場の記憶を呼び起こす。

気難しい参謀と、この盾の上で地図を広げて議論したこと。

気のおけない仲間と酒を酌み交わし、ゲームに興じたこと。

そして、忙しない戦火の合間、総務長に急かされて書類を書かされたこと。


もう二度と戻らない時間。

そう思うと、彼の胸がズキンと痛んだ。


「旦那? どうしたんだい?」

「ああ、なんでもない。しっかし、あんたの嫁さんは本当に料理がうまいな」

「だろ? 旦那も早く嫁さんをもらったらどうだ。もう四十も過ぎるんだから、誰かいいやつを世話してやろうか?」


「嫁さん……ねぇ」


男の意識は、さらに深い記憶の底へと沈んでいく。


『私のような人間を好きになる物好きなどいません。それに今の我々には、この【家】を守る義務があります。そんな時間は残されていません』

『だったら、賭けをしようぜ。お前が三十まで独り身だったら、俺が結婚してやるよ』

『冗談は顔だけにしてください』


軽口を叩き合いながらも、羽根ペンを走らせていた黒髪の才女。

二度と思い出すまいと誓ったはずの記憶に、彼はひどく困惑する。


「旦那、顔色が悪いぞ?」

「ああ、なんでも……」


心配そうに覗き込む農民に応えようとして、彼は異変に気づいた。

普通の人間には聞き取れないほどの微かな音。

遠くから、馬が地を駆ける音が聞こえてくる。


彼は違和感を覚える。

力強く、あまりに規則正しいそのリズム。

それは民間の馬ではなく、明らかに訓練された軍馬のものだ。


男は空になったかごを農民に預けた。

本来なら据え置いて使うはずの巨大な盾を、左手一本で軽々と持ち上げる。

そのまま、音のする方角を、鋭い眼光で睨みつけた。


「ちょいと野暮用だ。嫁さんにありがとうって伝えてくれ」


その真剣な声に、農民はしっかりと頷き、村の方へと駆け出していく。


男はそれを確認すると、逆方向へと走り出した。

巨大な盾と大柄な体躯を感じさせない、驚異的な速さで村からの道を駆け抜ける。


「ここだな」


村から十分な距離を取り、彼は立ち止まる。

狭い小道を封鎖するように、盾を深く構えた。


近づいてくる逞しい一頭の黒い軍馬。

しかし、その速さは尋常ではない。

まさに敵陣突破を狙う「単騎駆け」の勢いそのものだった。


「来い……!」


感覚が一気に戦場へと引き戻される。

かつて守り切れなかった絶望と、守り抜いた安堵。

相反する感情が渦を巻き、彼の心をかき乱す。

だが、彼はそれを強引に押し込め、目の前の敵に集中した。


地響きが、急速に近づく。

フードを被った騎手がマントをたなびかせ、一直線に突っ込んでくる。

凄まじい速度……だが、不思議と武器を構えている様子はない。


「ちっ……そういうことか」


男は思考を巡らせ、一瞬で答えに辿り着いた。

答えは一つ。

馬の質量をぶつけて体勢を崩し、その隙に一撃を見舞う奇襲戦法だ。


並の盾兵なら、その気迫に気圧されるだろう。

ましてや、片腕が使えない身であればなおさらだ。

だが、彼は違う。


「おもしれぇ……」


口角を上げ、不敵に笑う。

激突を覚悟し、全身の筋肉を鋼のように硬直させた。

頭の中では、すでに数通りの反撃ルートが組み立てられている。


しかし――衝撃は、訪れなかった。


男が盾の横から恐る恐る覗き込む。

目前、わずか数センチの距離。

黒い軍馬が、寸分の狂いもなく停止していた。


「どういうつもりだ?」

一分の隙もなく、盾を振り抜く予備動作を維持したまま、彼は騎手に問う。


馬上の人物は無言で下馬すると、フードをバサリと脱ぎ捨てた。


美しくまとめられた黒髪。吸い込まれるような、黒い瞳。

そして厳格さを絵に書いたような眼鏡を身に着けた女性がそこに現れた。


「お前は……」


衝撃。

二度と会うことはないと思っていたその姿に、男は言葉を失う。

あんなに堅固に構えていた盾が、わずかに震えていた。


忘れるはずもない。

『羽根ペンの女傑』と称えられた、総務長その人だ。


「お久しぶりですね……英雄同盟・防衛大隊隊長殿」


にこりともせず、彼女は眼鏡をくいっと指で押し上げる。

氷のように冷徹な瞳が、彼を射抜いた。


「あなたの除隊届をお持ちしました。経費の無駄ですので、早急に記入をお願いします」


   * * *


「よっと……。さあ、総務長、入ってくれ。ちと狭いが、悪くない部屋だろ?」


男――かつての大隊長は、巨大な盾を入口の脇に置く。

古びたドアを開け、彼女を中へと招き入れた。


「失礼します」


総務長と呼ばれた彼女が、大きな荷物を持ってあとに続く。


「適当に座ってくれ」


男は彼女を促すと、かまどの前に立った。

左手一本で器用に薪に火をつけ、お湯を沸かし始める。

はじめは失敗ばかりで時間もかかったが、今ではもう手慣れたものだ。


その間、彼女は部屋の中を無遠慮に物色している。

その態度は、まるで自分の家にでもいるかのようだ。


「ふむ……。きちんと整理整頓はされていますね。自暴自棄になっているかと思っていましたが、意外です」

「誰が自暴自棄になるかよ」

「……私たちを捨てて逃げ出したというのに、ですか?」


彼女は手を止め、男をじっと見つめる。

彼はあえてその視線を無視し、お茶の準備を黙々と進めた。


「捨てたわけじゃねぇよ」

「そうですか? 防衛失敗の責任を一人で背負い込み、私たちの前から勝手にいなくなったというのに?」

「……こんな腕になった男には、そのくらいしかできないだろ」


二人だけの空間に、薪の弾ける音と湯の沸く音が静かに響く。

穏やかな時間とは裏腹に、二人の間には張り詰めた緊張感が漂っていた。


「そういえば、軍の様子については何も聞かないのですね? あなたのすべてを懸けて守った場所だというのに」

彼女は一通りの物色を終え、椅子に座り直すと、静かに問いかけた。


「……あいつらを信用してるからな。それにこの村のことが今の俺にはなによりも大事なことだ」


茶葉を煮出しながら、男は静かに語る。

それは、嘘ではない。

この村での生活にも満足している。

傷ついた自分を受け入れてくれた善良な人々を守りたいという気持ちも、本物だ。


だが、軍での生活は泥に塗れながらも胸を熱くする栄光の日々だった。

だけど、あの場所に戻りたいなどとは思わない。

そんなのはありえないことだとわかっている。わかってはいるが、軍のことを思い出せば、彼は――


「もう戻られるつもりはないのですね?」


彼の苦悩を知っているかのように彼女は質問を投げかけてくる。

いや、実際に知っているんだろうと彼は思う。

彼女はそういう人間なのは、彼自身が一番良くしっているからだ。


「ああ、そうだな。ここが俺の居場所だ」


カップから立ち上る湯気のように、彼の心の迷いもスーッと消えていく。

言葉にすることで、彼は自分を完全に受け入れることができた。


「さあ、さっさと書類にサインをするか。お忙しい総務長殿を引き止めるのも心苦しいからな」


彼はお茶を置くと、椅子にどかっと腰を下ろした。


「では、こちらにサインを」

「おう」


除隊届と羽根ペンが机に置かれる。

その羽根ペンに、彼は見覚えがあった。

かつて、彼女の誕生日に贈ったプレゼントだ。


「えっと、まずは……」


あえてそのことには触れず、彼は利き手ではない左手で器用に文字を書き始める。


「少し曲がっていますが?」

「仕方ねぇだろ」

「サイン一つまともに書けないのは、どうかと思いますよ」


彼女は、ふと小さく微笑んだ。

腕の負傷など些底なことであるかのように接してくれる彼女の気遣いが、痛いほど伝わってくる。


軍のために本音でぶつかり合ってきた、最高の戦友。

その関係が本当に終わることへの寂しさに、一瞬ペンが止まりそうになる。

だが、彼は一気に名前を書き上げた。


「これでいいな」

「はい、確かに受領いたしました」


彼女が最後に受領のサインを書き込む。

彼女の振るう羽根ペンには人事の最終決定権がある。

これで彼は、軍籍を持たないただの一人の男になった。


「終わったな……」


深い開放感に包まれる。

心の奥底に鎮座していた重い塊が、完全に取り払われた心地だった。

明日からはまた、この村の一員として生きていこう。

そう、思っていたのだが。


「英雄同盟軍規・第百二十一条。私的関係の制限。同盟に所属する騎士、兵士、及び軍属は、任務の遂行に支障をきたす恐れのある私的な契約、とりわけ婚姻関係を結んではならない」


「ん……?」


彼女は突然、真顔で軍規を口にしはじめる。


「第二項。例外規定。前項の規定は、両名が除隊届を受理され、軍籍を完全に離脱した時点をもってその効力を失う」


「ん? んん……?」


男は眉間にしわを寄せる。

何を言っているのかわからない。

言葉の意味はわかるが、なぜ今このタイミングでそんな話を始めたのかが理解できない。


「あなたとの書類仕事は、いつもギリギリで嫌になりますね」


彼女は言いながら、もう一枚の紙を取り出した。

それは、もう一通の除隊届だった。

彼女は淀みのない所作で、自分の名前をサラサラと記入していく。


「自分で自分の除隊届にサインをするというのは、変な気分ですね」


その後、迷うことなく受領のサインを記す。


「まてまてまて! お前、何やってんだよ!?」


男は慌てて叫び、立ち上がる。

その拍子にこぼれそうになったカップを、彼女は涼しい顔で持ち上げた。


戦場では幾多の想定外を彼は潜り抜けてきた。

だが、これほどまでの事態は、その人生において一度もなかった。


「何、とは?」

「どういうことだ! お前が軍を辞めてどうすんだ!」

「ああ、後進はきちんと育ててありますから。どこかの無責任な元隊長殿と一緒にしないでください」


彼女はお茶を啜りながら、こともなげに言い放つ。

彼はあまりの展開に言葉を失った。

彼女にとって同盟軍は「家」であり、すべてだったはずだ。


各国から集まった寄せ集めの軍隊を一つにまとめ上げたのは、彼女の執念とあの羽根ペンがあったからこそだ。

そんな簡単に捨てられるはずがないし、彼女がいなくなって組織が回るはずもない。


「そんな勝手が、許されるわけないだろ」

「勝手……?」


彼女の瞳が、ふたたび氷のように冷たく凍りついた。

圧倒的な威圧感に、彼は思わずたじろぐ。

あの戦場を恐怖に陥れた黒騎士でさえ、これほどの覇気はなかった。


「ご自分のすべてを投げ出すような勝手は許されるのに、私の勝手は許されないと……そうおっしゃるわけですか? ……なら、実力行使をさせていただきます」


彼女は荷物をゴソゴソと漁り始める。

その後、バサリと取り出したその手には――。


「おい……そいつは……」


男は言葉を失う。

彼女の手に握られていたのは、この部屋にあるはずのない眩しい真っ白な衣装。

どこからどう見ても、見間違えるはずがない。


それは、花嫁衣装だった。


「私も明日で三十を迎えます。賭けはあなたの負けです。速やかに負けた分の精算してください」


真剣な眼差し。

彼女が本気であることを、彼は痛いほど悟った。


これは、もう、腹を括るしかない。

彼は大きく深呼吸をした。


「……こんな、片腕しか使えないおっさんでいいのか?」


彼は彼女の瞳をまっすぐ見つめ、問いかける。

答えは、最初からわかっていた。

だが、けじめとして聞かなければならなかった。


「はい」


彼女はゆっくりと歩み寄り、彼の逞しい胸に顔を埋めた。

彼はその細い体を、壊さないよう、しかし力強く抱きしめる。


「……わかった。じゃあ、これからよろしくな」


二人きりの室内。

それ以上の言葉は、もう必要なかった。

ただ、互いの鼓動だけが、静かな部屋に鳴り響いていた。


   * * *


「ふぅ……平和だねぇ……」


椅子に座り、彼は大きく伸びをする。

いつもの見慣れた光景。

だが、今までとは決定的に違う点があった。


「ふむ。ここの取引は少し不自然ですね。市場価格よりもだいぶ低い……中間業者の影響ですか。なら、別のルートを確保しましょう」


彼の傍らでは、彼の盾を机代わりにして、羽根ペンを走らせる彼女の姿がある。

もともと優秀な彼女は、村に溶け込むどころか、今では村の経営を一手に担っていた。


農具の購入から作物の売買にいたるまで、彼女の公正な管理に不満を漏らす村人は一人もいない。


「そんなところでやらずに、家の中でやればいいだろ。それか、普通の机を買うとか」

「いいえ。ここが一番安心しますので、大丈夫です」


彼女は手元から目を離さず、書類を次々と処理していく。

しばらくして書類をまとめると、彼女は静かに立ち上がった。


「さて、そろそろ愛しの夫のために、食事の準備をしましょうか」


彼女が、いたずらっぽく小さく笑う。


「焦げた魚だけは勘弁してくれよ」


男は思わず軽口を叩いた。


「……隊長殿は、食事が不要だということですね?」

「ははは、冗談だよ総務長殿。愛しの奥方の手料理なら、なんだって喜んでいただくさ」

「では、余計なことは言わないように」


笑い合う二人の間を、穏やかな風が吹き抜ける。


かつて世界を救った盾と羽根ペンは、こうして平穏な地で、第二の人生を歩み始めた。





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