第八章 終章・水は澄む
数日後。
朝のニュースは短く、素っ気なかった。
「——市内の産婦人科で報告されていた流産・死産の増加は、統計上の偏りだった可能性が高いとの見解が出ました」
声の調子も、画面の色も、ふつう。
私はテレビを消し、窓を少しだけ開けた。川からの風が、ふつうの距離で入ってくる。
◇◇◇
大学の中庭。
豊郷先生は、相変わらず“です・ます”の速さで話す。
「再開発の動線は、旧河道を跨がず沿う形に再設計されるそうです。奥里坂は、よくやりました。急がず、けれど遅れず」
「先生の水鏡が道を作ったんです」
孝が照れくさそうに言うと、先生は眉を下げて笑った。
「みなさんの器です。私は、合図を鳴らしただけですよ」
美希が書板を閉じる。「公的公開の線も、守り切りました」
真弓がヘルメットのバイザーを上げる。「“鳴く場所”は工区外。看板、増やしておいた」
私は頷き、耳の焦点をほどいた。
——音は、ふつうに散っていく。いまはそれでいい。
◇◇◇
夕暮れ。川べりの小さな祠。
四隅の灯は低く、木肌はしっとり息をしている。
孝が呼吸孔を指先で掃き、真弓が柵の杭を叩き直す。
美希は白砂の縁を薄く整え、豊郷先生は鈴を懐にしまった。今日は鳴らさない。
「確かめるだけ」
先生が言う。「呼べば、水は答える——ですが、声が届かないことも、また答えです」
私たちは祠の前で、短い拍を合わせた。
パン、パン。
ひと呼吸。
パン。
水の鏡に薄い影が立ち、誰かの肩が並ぶ気配。
けれど、今夜は笑いも泣きも混じらない。
ただ、静かな手振りだけが、遠くで一度。
孝が私に輪ゴムを差し出す。「テンポ、どう?」
私は輪を弾いて、頷いた。
「合ってる。……焦らず、遅れず」
◇◇◇
その週の終わり、祠に小さな板札が増えた。
〈この場所は土地の記憶を鎮めるための祠です。音を荒らさず、静かに通ってください〉
字は先生の筆。余白が広く、風が抜ける。
真弓が柵に寄りかかる。「うちの現場、だいぶ静かになった」
「湖の“遅れ”は、ほぼゼロ」
美希の指が、書板の最後の欄をなぞる。「数字の揺れも、季節の範囲に戻った」
孝は祠の枠に掌を当てる。「接ぎ、呼吸してる」
私は耳を澄ませ——そして、ほどいた。
聴き過ぎない。それも、役目。
「琴音さん」
先生が私を見る。「あなたは、よく器でいてくれました。……これからは、耳を使う時と使わない時を、自分で選びなさい」
「はい」
返事は小さく、けれどはっきりしていた。
背中で、孝の指が一度だけ合図を送る。大丈夫。
私は笑って、頷いた。
◇◇◇
夜。
祠の前で四人と先生は、最後にもう一度だけ拍を合わせた。
パン、パン。
ひと呼吸。
パン。
風が受け取り、水がそのまま返す。
音は、正しい距離で巡っている。
「——終わり、ですね」
美希が言うと、先生は首を横に振った。
「いえ、“続き”です。書くことも、作ることも、守ることも。奥里坂の仕事は、これからも続きます」
口調はやわらかく、目は真っ直ぐだった。
「先生、ようやく、研究に専念できますね」
美希が微笑む。私と先生は一瞬、目を合わせ、くすりと笑った。
いつか、どこかで聞いた言葉だ——そう感じたからだ。
先生は鈴を懐にしまい、川風を一息だけ確かめてから、
「……そうですな。やっと、静かに書けそうです」
◇◇◇
帰り道。
湖は金属ではなく、水の顔をしていた。
“無音の帯”は消え、風の通りは、ふつう。
私は立ち止まって、胸の中でだけ呼びかけた。
掛水さん。
返事は、ない。
けれど、風がひと拍だけ“うん”と頷いた。
私たちは歩き出す。
孝が半歩だけ歩調を落とし、私は輪ゴムをそっと弾いた。
◇◇◇
数か月後。
学食の窓から、奥里坂湖がひとつの面で光る。
冬に向かう水は澄み、祠の四隅の灯は短く低く揺れている。
再開発のパネルには、旧河道に寄り添う曲線が増えた。
“鳴く場所”は緑地に。
“折れ”は、橋脚の石をそのまま残す展示に。
真弓が現場帰りに立ち寄り、トレーを置く。
「飯、払ったからな」
「知ってるよ」孝が笑う。
美希が手帳を閉じる。「先生、今日も講義、満席でした」
私は記録を片付けながら、窓の外の水面をちらりと見る。
二つの輪は、もう見えない。
でも、輪の跡は、わたしたちの中に残っている。
——風は、巡る。
——水は、記憶する。
——炎は、灯る場所を知っている。
どれも当たり前で、どれも一度、失いかけて知ったことだ。
◇◇◇
その夜、私は一人で祠へ寄った。
鈴は鳴らさない。合図もしない。
ただ、川の音に、ふつうの拍で耳を合わせる。
水面に、ひとつ、ふたつ——灯りが映る。
そこに“誰か”の影を求めるのではなく、影が“誰か”であったことを思い出すために。
ふいに、風がごく弱く寄ってきた。
水の上に、白い四角が一瞬だけ浮かぶ。
文字は、読めない。
ただ、むにゃっとした笑いの形だけが、波紋に滲んだ。
私は声を出さずに笑って、頭を下げた。
元気で。
あなたたちも、こちらも。
——焦らず、遅れず。
鈴は鳴らなかった。
けれど、拍は、ちゃんと揃っていた。
◇◇◇
帰り道、ポケットの輪ゴムが指先に触れる。
弾かない。
今日は、このまま。
風が、ふつうに頬を撫でていく。
明日も水は、前へ流れる。
——その流れのどこかで、また笑いに会えるだろう。
それまで私たちは、ここで、書き、作り、守る。
町の“律動”に、自分の呼吸を重ねながら。
祠の方角で、鈴がほんの一度鳴った気がして、私は足を止めなかった。
ただ、うなずいて、歩いた。




