自殺未遂した高3
高2の終わり辺りから、私は本気で勉強し始めた。夜は眠すぎて集中出来なかったため、朝四時に起床し朝勉を始めた。起きたらすぐ立ったまま、英語の直読直解をする。直読直解とは英文を短く区切って前から訳していく方法だ。癖つけるために声に出して行う。この手法はずっとリスニングにもリーディングにも使えた。目覚ましに10分行い、数学に取り掛かる。数学は苦手科目でなかなか進まなかったので、疲れてきたら英語をしたり、生物をしたりと自分なりに工夫した。家事と勉強を両立していた頃のように移動時間も英文を読んで、隙間時間を活用した。その甲斐もあって、私の偏差値は5上がった。
私は高3になってからご飯を作るのをやめた。父ははじめ納得しなかったが、私の熱意に押され、渋々了解した。鮭のムニエルと鍋しか作らなかった父は、様々な調理器具を買い、手の込んだ料理を作り始めた。父はシングルタスクなので品数は少ないが、ずっと作ってきた私にはその大変さが分かった。私には及ばないといつも自信なさげな父の料理をなるべくオーバーリアクションで褒めた。夜ご飯を考える手間が省けるので、続けて欲しかった。
そうやって夏休みまでその熱意でやっていた私だったが、急に疲れが見えた。四時に起きれなくなった。しかし起きれなくなっても、毎晩9時に寝ていたので、勉強時間は自然と少なくなった。原因は布団に入り、目を瞑っている時に演劇のことを考えていたからだ。あの時の栄光を忘れられずにいた私は毎日の勉強のストレスを、演劇の記憶で相殺していた。思い出す度にアドレナリンが出たため、寝つきは悪かった。勉強時間が減ったことで、徐々に自己嫌悪に陥った私はドミノ倒しのように、やる気を失った。今までしていたことができなくなった。苦手な数学は頭に入らない所か理解出来なかった。何も収穫がないまま、ただ時間だけが過ぎていく。個別授業の先生も私の自主性に委ねていたので、どうすればいいか相談しても、指針を考えてはくれなかった。行き詰まった。自分で勉強法を模索しても何かしっくりこない。私の成績はみるみる下がっていった。秋になり追い上げてきた現役生や浪人生に抜かされ、医学部を目指しているのが恥ずかしくなるような成績になった。
そんな中、医学部の指定校推薦の話が舞い込んだ。私は1週間も勉強せず、指定校推薦を取るために考えた。介護経験、生徒会、部長、演劇がここで役に立つと思い、今までやってきたことを余すことなく伝えた。四人の中から選ばれ、私の合格は決まったと思った。今まで頑張ったんだから、受験くらいは楽しても良いだろう。そう甘く考え、更に勉強しなくなった。頭にあるのは面接のことだけ。私は勉強よりも面接の文章を考えることに時間を費やした。
指定校推薦とはいっても、英数理の学力試験と小論文、面接を受けて、半数が合格するという段取りだった。学力試験で点を取れなくては、小論文は見てもらえないにも関わらず、私は自己暗示をかけ、面接で自分の努力を分かってもらえれば受かると、洗脳されたように面接に絞った。現役生しか受けないため学力試験は簡単と言われていたのも、私の勉強したくない欲を加速させた。
あの頃、私はおかしかったと思う。父に対する感謝もなくなり、受験生という肩書きを使って、八つ当たりした。父は何も言わなかった。ただ黙って私の受験のサポートをしてくれた。
母は私が高2の12月に病院を抜けて一人暮らしをしていた。コロナ禍で面会謝絶になり、孤立した母が鬱病になったからだ。相部屋だったため、LINE通話も禁止。母がこっそりLINE通話をかけてきた時、久しぶりに私の顔を見て心底嬉しそうな顔をしていた。看護師がすぐに来たため、ほぼ会話はできず、通話がバレた母は看護師の監視が増えた。動けず何もできないのに、頭ははっきりしている。天井を眺めるだけの生活は母の心を蝕んでいった。父に死にたい、殺してくれなどの気が滅入るようなLINEを毎日何十通送っていた。けれどまたうちに連れて帰るとなると、以前の生活より、もっと介護は厳しくなり、受験生の私は勉強どころじゃなくなる。また介護資金は莫大にかかる。父の収入では十分な税金が降りない上に、姉が私立医学部に行ったため、うちもカツカツだった。見兼ねた私は世帯分離という方法を調べた。世帯分離をして、一人暮らしをすることで安く介護士や看護師を24時間付けるのだ。承認されるか不安を抱きながら市役所へ向かった。意外とあっさり手続きは終わり、そこから父は相当頑張って、ケアマネと相談しながら、母を一人暮らしさせることに成功した。こうして母に毎日会いに行けるようになり、母の精神も安定していった。
試験日が近づいてきて、塾の先生も担任も受かるだろうと確信していた。医学部を目指していた友達には心底羨ましがられた。
試験前日、飛行機で父と現地に向かい、大学を散策した。デザイン性の高い病院や学生棟に夢が膨らんだ。ここが春から通う大学だと信じてやまなかった。姉も夜に合流して、面接練習に付き合ってくれた。
当日、姉は頑張れと言い残して、朝の飛行機で自分の大学へ戻っていった。初めは学力試験だった。直前に簡単な公式ばかり見直して、身に付いていないことに焦った。
そのまま試験が始まって、問題を見た瞬間やばいと思った。明らかな力不足だった。目の前がぐわんぐわんと渦巻いて、間に合わないまま試験が終わった。私は冬なのにぐっしょり汗をかいていた。
そのまま息をつく間もなく小論文、面接を行った。その2つは練習していたので自信があった。一緒に集団討論をした子からも終わった後に凄かったと声を掛けられた。私はやり切ったと思った。学力試験が駄目でも面接と小論文で受かったと思った。
父が迎えに来てくれて、父の妹とその旦那さんと夜ご飯を食べた。父の妹、つまり私の叔母はその大学近くで教師をしていた。そのため私が受かったら、良くしてやってほしいと父が頼んでいた。代々医師家庭のうちは、医師以外の職業だと、どこか下に見られる。その居心地の悪さに叔母は地元には残らず、大学の頃からずっとその地にいた。疎遠だったため、気まずかった。実の兄妹でさえも気まずそうだった。
翌日地元に帰り、私は合格発表を待った。発表時間は丁度体育の授業後だった。体育が終わり着替えている時にずっとスマホを見ていた。友達も知っていたので、私の周りを徘徊していた。スマホ画面に父のLINEが表示された。
「今回は残念だったみたい」
たった一つの文章がこんなに人を凍りつかせるものかと私は初めて思った。本当に?そう送った。咄嗟に追加合格とかはないものかと考えた。父から不合格通知のスクショが送られてきた。不合格とはっきり書かれていたのは見えた瞬間、視界が歪んだ。私は泣いていた。そして絶望した。友達は絶句した。そこからはあまり覚えていないが、どこかでこうなることを私はずっと分かっていた。
その日から友達からは腫れ物扱いされた。学年の全員が知っていた。恥ずかしくて、もう死のうと本気で思った。もう十分頑張った。生きてたくない。いつものバスを途中で降りて、東急ハンズで縄を買った。自分の部屋のドアに沢山輪っかにしてくくりつけ、全て自分の首にかけた。確実に死ねるように輪を沢山作った。多分私はずっと死にたかった。ずっと自分の人生が不満だった。大人を恨んでいた。私はストレスが溜まると、父がしていた自分の顔を殴るという行為をよくしていた。強く殴り過ぎて、鼻血をよく出していた。受験期は特に多く、ずっと自分が大嫌いだった。生まれ変わりたかった。鼻血の血痕が床についているのが、登った椅子の上から見えた。椅子から降りたら、私は死ねる。縄を巻きつけた首に手を添えて、ゆっくり椅子の座面から足置きに一段下がった。メキメキっと音がして、首が締め付けられた。そのメキメキはもしかしたら椅子の音だったのかもしれない。私は恐怖を感じて、咄嗟に座面に戻り、また視界が滲んだ。座面に上がって心底安堵した自分に気付いた。首から1本ずつ縄を外して、私は泣きながら笑った。死ぬ勇気もない自分に腹立った。私はこれからどうすればいいんだろう。今年はもう間に合わない。けど浪人したくない。姉のような辛い思いは嫌だ。
一階に降りて、鏡を見ると、首元に横一文字に線が入っていた。焦った私は姉に連絡した。姉はすぐに出てくれた。死のうとしたことを話すと、姉は激怒して、声を荒げながら言った。そんな医学部受験が甘いはずないだろうと。姉からしたらまだ1つしか落ちてないのに、いきなり死のうとした弱い妹だ。ずっと死にたかった。姉に告白した。大学で離れて、近況をあまり知らなかった姉は絶句した。そしてごめんねと言われた。姉が謝る必要はない。自分がヤングケアラーなのはどうしようもないことだし、私も家族の力になりたかった。しかしいつからか自分は自分の人生を生きていなかった。人生の責任を他人に押し付けていた。自分の境遇を理由に全てが他責思考だった。確かに自分の生い立ちは自分ではどうしようもできないが、自分の行動は変えられる。変えられるものに目を向けることが人生の抜け道であるということにその時は気づいていなかった。
そこから私は医学部を諦めて、農学部に進学しようと決めた。
父と担任は不服そうで、今度は父が私に八つ当たりをしたこともあった。父から今まで私の態度に耐えてきたのは全て医学部に受からせるためだと言われた。私は何も言えなかった。私は農学部に行ったら実家には帰れなくなるだろうと心のどこかで思った。
厳格な祖父は医学部じゃなくて農学部に行きたかったそうなので、案外賛成してくれた。少しほっとしたのと同時に、医師にはもうならないんだと痛感した。それからはずっと空元気で毎日過ごした。人生諦めていた。何のときめきもなく、将来が不安で何の仕事に就こうか授業中に調べていた。市役所で勤めるのも堅実で良いなと思ったが、医師ほどやりたいとは思えなかった。どの職業も自分にピンとくるものがなく、一生母の介護をして過ごそうかと甘えた考えも持っていた。職業を調べるのに行き詰まって、ふと浪人したらどうなるんだろうと考えた。予備校を調べてみると、合格体験記が出てくる。私は見たくないと思いながらもページを開いた。皆きっと地頭が良かったのだろうと思っていたが、意外にも自分より成績が低い状態でスタートした人もいた。再受験生や元文系、各々ハンデを抱えながら合格を勝ち取っていた。私にもできるかも。安易な気持ちだったが、そう思った。合格体験記を読み進めて行くうちに浪人は恥ずかしいと思っていたが、指定校に落ちただけで簡単に夢を諦める自分の方がよっぽど恥ずかしいと気付いた。浪人の1.2年なんて将来何十年も生きる中のこれっぽっちにすぎない。姉は二浪もして勝ち取った。姉は凄かったんだと心から思った。私は覚悟を決めて、父にお願いした。もう振り回さないでくれと最初は言われたが、父を説得して、寮付きの予備校に入学させてもらうことになった。私はラッキーだった。ここから私は7カ月で偏差値10上げて、生物は全国一桁を取るほどに成長する。




