ひたすらヤングケアラーな中学生
中学生になった私はモテ期を迎えた。横に大きかった私は、思春期で背が伸びてスラリとした体型になった。何人かの男子から好意は持たれていると噂を聞いたが、私が人見知りで男子と全く話すことが出来なかった為、つまらない女だと自然に話は無くなっていった。男の子とは残酷なもので、足は大根だの、横顔が鳥だの、よく見たらそんなに可愛くないだの、聞こえるように言ってくるため、ルッキズムが植え付けられ、車の反射で見た目を整える癖が今でもついてしまっている。
部活は吹奏楽部に憧れていたが、介護で放課後ある部活には入れなかったので、全校集会や体育祭の音響を調整する部活に入った。放課後、グラウンドを横目に、羨ましいと思う気持ちを見下すことで相殺した。母はもうその頃、ファミマのプリンクレープしか食べることができなかった。栄養状態は著しく悪いのに、そのプリンクレープさえむせて吐き出してしまう。家族で囲む食事はいつも緊迫していた。母は一度むせると止まるまで何分もかかる。食事を中断して、3人は水を汲んだり、背中をトントンしたりと各々できることをした。他愛ない話をできる雰囲気ではなかった。あの時は皆がイライラしていたと思う。
私の放課後のルーティンとしてはファミマをはしごして、姉と手分けしてプリンクレープを探す。すぐ帰宅し、母をトイレに連れて行く。スーパーカップバニラを用意し、母のグローブにスプーンを固定する。洗濯物を取り入れ、シャッターを閉める。それが終われば課題をし、家事代行のスタッフが作ったご飯を机に並べ、洗い物をして、母をお風呂にいれ、歯磨きをする。薬を飲ませて、トイレに連れていき、ベッドに寝かせる。70キロ近くあった母は重く、支えられない私はベッドから起こすのも、寝かせるのも下手だった。何度も怒られた。
お風呂は母一人で入ることもあったが、母が風呂場でこけたことから、娘のどちらかと入ることになった。あれも結構衝撃的だった。ある日母がお風呂から出てこず、心配で扉を開けた所、扉は4センチほどで突っかかり、風呂場の地面に母の後頭部が見えた。慌てて父を呼んで起こすと、母の口からは血が出ていた。幸い大きなケガは無かったが、今でもあの光景はトラウマだ。
また、母のベッドには足で押せるボタンがあった。それは2階の装置に繋がっており、ボタンを押すとアニーローリーが鳴る仕組みとなっていた。音楽が鳴ると、家族は一目散に母のもとへ向かう。学校の音楽の授業で私が何か馴染みがあるなと知らぬ間に選んだ曲は、アニーローリーが転調したものだった。その話は久しぶりに家族の食卓に大笑いを起こした。
とはいうものの、段々生活は荒んできて、お互いに思いやりを持てなくなった。介護は押しつけ合い。母も上手くいかないと怒る。私だってなりたくてなってるわけじゃないと癇癪を起こす。母は悪くない。そんなことは皆分かっている。病気が悪い。いつか治る。母の検索履歴はALS関連で埋め尽くされ、治ったらまた皆で旅行行こうと何の保証もない未来の約束が私たち家族の支えだった。
ある日、母が食事中に言った。私生きててもいい?と。ALSは延命するかしないかを選べる。胃瘻で栄養を補い、人工呼吸器で酸素を確保する。その2つが無ければ、母は死ぬ。
家族は笑った。ママは生きるでしょと。母の真剣な相談を笑った。もう皆疲れていた。
もう誰も母の苦しさを考えることは出来なくなっていた。
その後、母が一時入院となった。ついに胃瘻と人工呼吸器をつけることになったのだ。そのためには胃と気管に穴を開ける必要があるので今回はその手術だった。手術した医師は驚いた。母の肺は半分が痰で埋まっていた。半分の肺でずっと呼吸していたのだ。よく窒息死しなかったと今でも思う。痰を抜いた母の顔色は見違えるほど桃色に変わった。
入院中、母は私たちが生まれて以来、初めて長期間家を空けた。いつも居ることが当たり前だった私たちはそれなりに困惑した。寂しかった。
私はストレスで眉毛を抜き、薄い眉毛に気づいた担任は凄い剣幕で私を呼び出した。校則で眉毛を整えることは禁止だった。私は職員室で号泣してしまった。ずっと自由にはなりたかったが、母が入院して凄く寂しいことを赤裸々に話した。担任は元々うちの家庭環境を知っていたので、理由を聞いて親身になってくれた。学校で一番怖いと言われていた担任を一番優しいと思った。教室に帰った時、友達が目を真っ赤に腫らした私に驚いたが、私は逃げるように荷物を持って母の病院へ向かった。姉と合流すると、泣いたと分かる妹の顔を見て、姉も同じ気持ちだったと吐露した。
家族皆が母と離れて、母が居てくれることの大切さを知った。毎日大変で忘れていたけど、母は聞き上手でアドバイス上手で、知らぬ間に家族を精神的に支えてくれていた。忘れていた何かを私達は思い出した。
しかし手術をしてから、このまま母と暮らすのは難しいだろうという判断になった。人工呼吸器と胃瘻が付いてしまったら、私達は母に付きっきりになる。姉は医学部受験生だったが、受験期直前も介護をしていた。母は入院を断固拒否したが、祖父母総出で説得して、入院することになった。私たちの家から車で30分の病院だ。それから家に母が戻ってきたことは一度もない。
跡形もなく母の物は片付けられ、介護の負担は減ったものの、心にぽっかり穴が空いたようだった。姉も介護に片足を突っ込んでおきながら医学部に受かるはずもなく、浪人をすることになった。私は決めた。家事を頑張って、母の代わりをしようと。自分が皆を支えるんだと。
それからというもの、料理を一度に2日分作り、洗濯をし、土曜は学校が午前に終わって家中を掃除し、日曜は母のお見舞いに行って、一週間分の買い物をして、課題をした。中学三年生から特進クラスに入り、高校内容は難しく、私にはプライベートは無かった。幸い友達も沢山いるわけでもなく、田舎だったので、遊びに行きたいとも思わなかった。ただひたすら家事と勉強をしていた。姉のセンター試験では姉の好物のレンコンのはさみ揚げを作った。そんなに上手ではない妹の料理を、姉は美味しい美味しいと食べてくれた。
姉には申し訳ないと思っていることがある。私は中2の頃から好きな人がいた。意地の悪い友達が私だけ恋バナから仲間外れにするため、即席で好きな人を作り、自分に暗示をかけていたら、本当に好きになってしまった人だった。中3のバレンタインで告白してみたものの、見事に玉砕し、姉の受験終わりに八つ当たりしてしまった。「試験終わりはゆっくりしたいよ」そりゃそうだ。何もかも上手くいかない。こんなに頑張っているのに。自分の人生がずっとお先真っ暗に見えた。




