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雨の跡

作者: あい太郎

引っ越してきたのは、梅雨の始まりだった。


坂の上に建つ古い借家。家賃は相場よりもずいぶん安かった。周囲には緑が多く、鳥の声もよく聞こえる。会社の異動で一人暮らしになった俺にとっては、静かでいい場所だった。


最初の雨が降ったのは、越して二日目の夜。


帰宅途中、ずぶ濡れになりながら玄関を開け、タオルで頭を拭いていたとき、ふと目に入った。


玄関脇の白い壁に――手形があった。


それは濡れていた。はっきりとした五本の指。小さく、細く、どこか女性的な手形だった。


「……何だ?」


いたずらかと思ったが、玄関には屋根があり、雨が直接かかるはずもない。誰かがわざわざ手を濡らして、壁に押しつけたのか? 不気味だったが、触れてみると水分だけで汚れはない。翌朝には跡形もなく消えていた。


だが、それは始まりだった。


雨が降るたび、手形は現れた。


最初は一つ、次は二つ。日が経つごとに増えていく。どれも同じ小さな手。玄関脇の壁から、窓の下、そして風呂場の外壁へと、まるで“家の中”へと近づいてくるように思えた。


怖くなって、スマホで撮影した。だが、写真には何も写っていなかった。白い壁。何の跡もない。


「俺の見間違いか……?」


けれど、現実の手形は確かにそこにある。指先からしたたり落ちる水滴を、この目で何度も見た。


ある夜、とうとう夢に出てきた。


びしょ濡れの女が、玄関の外に立っている。顔は見えない。長い黒髪が顔に張りつき、ただ静かに壁に手をついている。その手から、じわじわと水が染み出していた。


目を覚ますと、家の中がひどく湿っていた。畳がじっとり濡れ、窓ガラスに無数の手形が浮かんでいる。


「……うそだろ……?」


すぐに拭き取ったが、また翌朝には戻っていた。見れば見るほど、手形の数は増えていた。窓にも、鏡にも、壁にも。まるでこの家全体が、見えない“誰か”に内側から押されているようだった。


俺はこの家について調べた。


不動産屋に聞くと、数年前に女性が一人、この家で住んでいたという。近所の人に話を聞くと、彼女はどうやら妊娠していたらしい。そして――梅雨のある夜、忽然と姿を消した。


「警察も探したんだけどね、結局見つからなかったの。井戸があったらしいけど、今は埋めちゃってるから」


「井戸……?」


その言葉が頭に引っかかった。


俺はスコップを借り、家の裏手を掘り返した。


土はぬかるんでいた。何かを吸っているような、重く、冷たい土。


数時間掘ると、固い感触がした。石で蓋をしたような丸い構造。古い井戸の跡だった。


そのときだった。急に、空が暗くなった。ポツ、ポツ、と雨が降り始めた。


その瞬間、家の方から音がした。


ぴしゃっ。


窓に、何かがぶつかった音。


ぴしゃっ、ぴしゃっ。


雨音ではない。もっと重い、肉のような音。振り返ると、すべての窓に――手形が浮かんでいた。中から外へと貼りつけるように。


俺は息を呑んだ。


それだけじゃない。井戸の中から、水のはねる音がした。


「……誰か、いるのか……?」


近づいたそのとき。


ばしゃっ、と水が噴き上がり、中から“腕”が飛び出した。


細く白い女の腕。泥まみれで、骨ばっていた。


その手は、まっすぐ俺の腕を掴んだ。冷たかった。言葉にならないほど、冷たかった。反射的に振りほどこうとしたが、力はまったく通じなかった。指先が皮膚に食い込み、体温を奪っていく。


「……かえして……」


耳元で、声がした。


「……わたしの、こども……」


俺は絶叫して逃げた。全力で走った。雨は本降りになり、全身が濡れても、あの冷たさほどにはならなかった。


それから、あの家には戻っていない。会社には事情を話し、仮住まいに移った。


……でも。


梅雨が終わって、数週間。


雨の音を聞くたび、思い出す。


あの手の冷たさを。あの声を。


そして今朝――


仮住まいのアパートの窓に、濡れた小さな手形が一つ、浮かんでいた。

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