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透けた記憶と、終わりではない輪郭
「関東甲信地方は本日、平年より二日早い梅雨明けとなりました⎯⎯」
テレビのスピーカーから、落ち着いた女性アナウンサーの声が流れていた。
部屋の空気が少しだけ軽くなる。
画面の向こうでは、青空に入道雲が浮かんでいる。
その映像を見ながら、澄は静かに窓の外を見上げた。
さっきまで降っていたはずの雨の気配はもうどこにもなくて、
あの湿気も、重さも、遠いところへ置いてきたように思えた。
⎯⎯もう、雨は上がったんだ。
⸻
学内の美術展。
展示室には、雨をテーマにした連作が並んでいた。
“ 透雨 - Touu - ”。
御影澄、個展作品群。
透明水彩の滲み、アクリルの重ね。
紙から立ち上るような湿度と、静かな温度。
それらすべてに、“彼”がいた。
でももう、それは“片想いの肖像”ではない。
最後の一枚。
キャンバスの中央には、雨上がりの空の下で並んで歩くふたりの背中。
顔は描かれていない。
けれど見れば分かる。
ふたりは、確かに同じ方角を向いていた。
背後から声がして、澄はゆっくりと振り向く。
しのが、照れたような顔で立っていた。
「うん」
「並んでんな、ちゃんと。俺ら」
「ようやく、だけどね」
しのが隣に並ぶ。
肩と肩が触れるか触れないかの距離が、静かに続いていた。
この距離が、心地よかった。
描きたかったのは、たぶん⎯⎯こういう日常だったのかもしれない。
「顔ないのに、こんなに“俺だ”って分かるの、ずるい」
「後ろ姿しか描いてなかったときから、もう“しの”だったよ」
どちらからともなく、ふっと笑った。
展示室の空調音が微かに響く中、ふたりの間にだけ、ゆるやかな沈黙が流れる。
絵の前で並んで立つ、その時間の中で。
「……なあ、澄」
「ん」
「一緒に帰ろ」
「うん」
しばらく歩き出そうとしないしのが、ぽつりと続ける。
「……なあ、澄」
「今度は何?」
「……一緒に、住まないか?」
澄は驚いて横を振り向く。
しのの横顔が、いつものように無防備で、でもどこか安心できた。
そして、ゆっくりと視線を絵に戻す。
「……うん、いいよ」
ふたりの視線が、もう一度キャンバスの中の背中に重なる。
無言のまま、同じ未来を思い描くように。
「じゃあさ、俺らの新たな“はじまり”ってことで」
「うん。ここから⎯⎯また描いていこう」
蝉の声が、どこか遠くから響いていた。
季節はひとつ進んで、それでも雨の余韻は、
この“透雨”という連作の中に、静かに、確かに息づいていた。
⎯⎯これは、ある雨季の静かな記憶。
そして、ふたりが歩きはじめた光のほうへ続く絵の途中。
筆の中に、それがある。まだ乾かないまま、淡く、柔らかく。