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透雨  作者: 伊禮 灯遥
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8

透けた記憶と、終わりではない輪郭

「関東甲信地方は本日、平年より二日早い梅雨明けとなりました⎯⎯」


テレビのスピーカーから、落ち着いた女性アナウンサーの声が流れていた。

部屋の空気が少しだけ軽くなる。

画面の向こうでは、青空に入道雲が浮かんでいる。


その映像を見ながら、澄は静かに窓の外を見上げた。

さっきまで降っていたはずの雨の気配はもうどこにもなくて、

あの湿気も、重さも、遠いところへ置いてきたように思えた。


⎯⎯もう、雨は上がったんだ。



学内の美術展。

展示室には、雨をテーマにした連作が並んでいた。

“ 透雨 - Touu - ”。

御影澄、個展作品群。


透明水彩の滲み、アクリルの重ね。

紙から立ち上るような湿度と、静かな温度。

それらすべてに、“彼”がいた。


でももう、それは“片想いの肖像”ではない。


最後の一枚。

キャンバスの中央には、雨上がりの空の下で並んで歩くふたりの背中。


顔は描かれていない。

けれど見れば分かる。

ふたりは、確かに同じ方角を向いていた。


背後から声がして、澄はゆっくりと振り向く。

しのが、照れたような顔で立っていた。


「うん」


「並んでんな、ちゃんと。俺ら」


「ようやく、だけどね」


しのが隣に並ぶ。

肩と肩が触れるか触れないかの距離が、静かに続いていた。


この距離が、心地よかった。

描きたかったのは、たぶん⎯⎯こういう日常だったのかもしれない。


「顔ないのに、こんなに“俺だ”って分かるの、ずるい」


「後ろ姿しか描いてなかったときから、もう“しの”だったよ」


どちらからともなく、ふっと笑った。

展示室の空調音が微かに響く中、ふたりの間にだけ、ゆるやかな沈黙が流れる。


絵の前で並んで立つ、その時間の中で。


「……なあ、澄」


「ん」


「一緒に帰ろ」


「うん」


しばらく歩き出そうとしないしのが、ぽつりと続ける。


「……なあ、澄」


「今度は何?」


「……一緒に、住まないか?」


澄は驚いて横を振り向く。

しのの横顔が、いつものように無防備で、でもどこか安心できた。


そして、ゆっくりと視線を絵に戻す。

「……うん、いいよ」


ふたりの視線が、もう一度キャンバスの中の背中に重なる。

無言のまま、同じ未来を思い描くように。


「じゃあさ、俺らの新たな“はじまり”ってことで」


「うん。ここから⎯⎯また描いていこう」


蝉の声が、どこか遠くから響いていた。

季節はひとつ進んで、それでも雨の余韻は、

この“透雨”という連作の中に、静かに、確かに息づいていた。


⎯⎯これは、ある雨季の静かな記憶。

そして、ふたりが歩きはじめた光のほうへ続く絵の途中。

筆の中に、それがある。まだ乾かないまま、淡く、柔らかく。

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