7
並ぶ背中と、色づいた余白
朝、目が覚めた瞬間に、昨日の声が胸の奥でまだ静かに響いていた。
「俺も、ずっとお前が好きだったよ」
その言葉だけが、熱の残る体にじんわりと染みていた。
外では、粒の細い雨が街を静かに濡らしていた。
傘を差すほどでもないけれど、空気に溶けるような湿り気が肌に触れてくる。
それでも、自然と大学へ向かう足が前に出る。
ゆっくりと歩きながら考えていたのは⎯⎯
昨日、描きかけて、結局描けなかった一枚の絵のことだった。
美術棟のアトリエ。
クローゼットの扉を開けると、雨の匂いがふわりと鼻をかすめた。
描きかけのキャンバスは、昨日のままそこにある。
椅子に腰を下ろし、パレットを手に取る。
筆に触れた瞬間、アトリエのドアが小さく軋んだ。
「来てると思った」
振り返ると、しのが立っていた。
少しだけ笑って、いつもの声で。
「……なんで分かったの」
「なんとなく。……もう熱は下がったのか?」
「……まだ少し……ある」
「はあ?! お前なあ……」
呆れたように言いながら、しのは俺の額に手を当ててくる。
その温度に触れた瞬間、昨日の記憶がぶわっと蘇ってきて、
思わず視線を逸らしてしまった。
「……でも、描きたい絵があるんだ」
「……駄目だ。また倒れたら、どうすんだよ」
俺は俯いたまま、何も返せなかった。
しのはしばらく黙ったあと、小さく息を吐いて言った。
「ったく……お前は一度言い出したら、ほんと聞かないんだから……」
そう呟いて、隣の椅子に腰を下ろす。
そして、キャンバスを見つめながらぽつりと続けた。
「……描き終わったら、家まで送ってくから。文句言うなよ」
「……ありがとう」
その一言だけ返して、俺はゆっくり筆を取る。
描きかけだった彼の背中。
その隣に、もう一人分の肩を描き足していく。
静かに、静かに。ふたりが並ぶ距離で。
「俺、お前が描く俺が、好きだった」
しのの声が、穏やかに響く。
「……絵なのに?」
「絵だから。お前の目に映った俺が、嘘じゃなかったから」
筆先がわずかに震える。
でもそれは、迷いじゃなかった。
「これからも、描いてくれる?」
「……描きたいよ。お前が、隣にいるなら」
しのが少しだけ、俺の肩に寄り添ってくる。
何も言わずに、そっと、触れるくらいの距離で。
雨の音が、少しだけ遠ざかっていく気がした。
キャンバスの中で、ようやくふたりの背中が並んでいた。