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透雨  作者: 伊禮 灯遥
7/9

7

並ぶ背中と、色づいた余白

朝、目が覚めた瞬間に、昨日の声が胸の奥でまだ静かに響いていた。

「俺も、ずっとお前が好きだったよ」

その言葉だけが、熱の残る体にじんわりと染みていた。


外では、粒の細い雨が街を静かに濡らしていた。

傘を差すほどでもないけれど、空気に溶けるような湿り気が肌に触れてくる。

それでも、自然と大学へ向かう足が前に出る。

ゆっくりと歩きながら考えていたのは⎯⎯

昨日、描きかけて、結局描けなかった一枚の絵のことだった。


美術棟のアトリエ。

クローゼットの扉を開けると、雨の匂いがふわりと鼻をかすめた。

描きかけのキャンバスは、昨日のままそこにある。


椅子に腰を下ろし、パレットを手に取る。

筆に触れた瞬間、アトリエのドアが小さく軋んだ。


「来てると思った」


振り返ると、しのが立っていた。

少しだけ笑って、いつもの声で。


「……なんで分かったの」


「なんとなく。……もう熱は下がったのか?」


「……まだ少し……ある」


「はあ?! お前なあ……」


呆れたように言いながら、しのは俺の額に手を当ててくる。

その温度に触れた瞬間、昨日の記憶がぶわっと蘇ってきて、

思わず視線を逸らしてしまった。


「……でも、描きたい絵があるんだ」


「……駄目だ。また倒れたら、どうすんだよ」


俺は俯いたまま、何も返せなかった。

しのはしばらく黙ったあと、小さく息を吐いて言った。


「ったく……お前は一度言い出したら、ほんと聞かないんだから……」


そう呟いて、隣の椅子に腰を下ろす。

そして、キャンバスを見つめながらぽつりと続けた。


「……描き終わったら、家まで送ってくから。文句言うなよ」


「……ありがとう」


その一言だけ返して、俺はゆっくり筆を取る。


描きかけだった彼の背中。

その隣に、もう一人分の肩を描き足していく。

静かに、静かに。ふたりが並ぶ距離で。


「俺、お前が描く俺が、好きだった」


しのの声が、穏やかに響く。


「……絵なのに?」


「絵だから。お前の目に映った俺が、嘘じゃなかったから」


筆先がわずかに震える。

でもそれは、迷いじゃなかった。


「これからも、描いてくれる?」


「……描きたいよ。お前が、隣にいるなら」


しのが少しだけ、俺の肩に寄り添ってくる。

何も言わずに、そっと、触れるくらいの距離で。


雨の音が、少しだけ遠ざかっていく気がした。

キャンバスの中で、ようやくふたりの背中が並んでいた。

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