5
逸れた視線と、届かない筆先
朝、雨は大降りになっていた。
部屋の中の湿度は一向に下がらず、額に浮いた汗がそのまま乾かずにいた。
ベッドの上で目を開けたまま、天井の染みを見つめる。熱は下がっていない。喉はまだ焼けるように痛む。
スマホは、昨夜の通知のまま置かれていた。
“澄、大丈夫か?”
“水、ちゃんと飲んでる?”
“無理すんなよ。……返信なくても、既読でいいから”
画面の明かりが眩しくて、すぐに伏せた。
文章は短くて、軽いようでいて、どれもやたらと優しい。
僕の中で、また“期待”という名の何かが静かに疼く。
描かなきゃ、と思った。
昨日のスケッチブックは、机の端に置かれたままだ。
表紙が少しだけ波打っていて、水に濡れた跡が薄く残っている。
それを見た瞬間、喉の奥がきゅっと痛んだ。
違う、痛いのは喉じゃなくて、胸の奥だった。
手を伸ばそうとして、やめた。
スケッチブックの上に置いてある鉛筆が、見慣れたもののはずなのに、今日はひどく遠く感じた。
描いたら、また好きになる。
描いたら、また希望を持ってしまう。
描かないことでしか、感情を止めることができなかった。
昼になっても食欲は湧かなかった。
インスタントのスープすら飲みきれず、布団に逆戻りした。
カーテンの隙間から、少しだけ光が漏れていたけれど、眩しくはなかった。
世界が自分に無関心でいてくれることが、今はありがたかった。
しののことを考えまいとしても、考えてしまう。
彼の声、彼の横顔、彼の、白衣の袖の濡れ方。
全部、絵具よりも鮮明に、胸の奥にこびりついている。
なのに、描けない。
それが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
夜、スマホがまた震えた。
もう見なくても、誰からか分かっていた。
“明日、少しだけ会えないか”
“話したいことがある”
画面を見つめたまま、指が動かない。
“うん”と返せば、また期待する。
“だめ”と返せば、永遠に終わってしまいそうだった。
それなら、何も言わないほうがいい。
その沈黙の選択肢が、今の僕にはいちばん優しかった。
寝返りを打つと、目の端に絵具箱が見えた。
蓋は閉じたまま、何も言わずにそこにあった。
今日は描かない。たぶん、明日も描けない。
でも、それでも⎯⎯彼のことを考えるのは、止まらなかった。