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誤解の種と、にじんだ距離
午前の空は、少しだけ明るかった。
雲は多かったけれど、ところどころ薄く透けていて、陽の匂いがほんのり感じられた。
大学の講義室の窓際で、僕は手元のノートに何度も無意味な線を描いていた。
昨夜、しのからのメッセージが届いた。
「今日、実験早く終わるかも」
それだけの文章なのに、何かを伝えようとしてくれている気がして、僕は少しだけ嬉しくなった。
だから、今日も美術棟に行こうと思っていた。
“たまたま”会えたら、それでいい。
昼休み、風がやけに湿っていた。雨の予感。
でも傘は持っていなかった。
構内を歩く足取りは、どこか軽くて、僕の心も少しだけ浮いていた。
⎯⎯あのとき、引き返せばよかった。
図書館の脇を通るとき、しのの姿が見えた。
白衣の袖をたくし上げて、同じ学部の女の子と話している。
彼女が笑いながらしのの腕に軽く触れた瞬間、風がふわりと通り抜けた。
そのとき、ベンチに座っていた他の学生たちの声が、風に乗って僕の耳に入った。
「え、あのふたり付き合ってるのかな?」
「最近めっちゃ仲いいし〜」
「お似合いだよねー。しの先輩、ああいう子好きそう」
まるで、何かを突きつけられたようだった。
一瞬で、足元の地面の感触がなくなった。
声も、光も、全部が遠のいて、僕の中で何かが静かに崩れた。
⎯⎯ああ、やっぱりそうだったんだ。
僕はそのまま歩いた。声も、息も、残して。
美術棟には行かなかった。
傘を持っていなかったから、霧雨のような空気が髪に触れて、服を濡らしていった。
鞄の中、スケッチブックがじわじわ湿っていくのが分かった。
ポケットに入れた手のひらが、ふるえていた。
午後3時前、家に帰った。
夕方には頭が重くなって、喉が焼けるように痛み出した。
身体の奥が熱を持っていて、でも、それよりも心が先に壊れていた。
夜、スマホが震えた。
“澄、今日どうした?”
“大丈夫か?”
優しい言葉が、今はただつらかった。
期待しないって決めていたのに。
また勝手に、好きになってた。
だから、返事はしなかった。
スケッチブックも開かなかった。
今日は描かない。描けない。
もう、あの背中は、描いちゃいけない気がした。
雨が、静かに降り続いていた。
自分の内側から滲み出たような、その雨音が、
どうしようもなく、鈍くて苦しかった。