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透雨  作者: 伊禮 灯遥
3/9

3

見えない接点と、静かな予感

雨の予報はなかった。けれど空は朝からくすんでいて、風が濡れたような匂いを運んでいた。

午後になっても太陽は顔を出さず、大学の敷地全体が湿った薄墨に覆われている。

美術棟のガラス窓には曇りがちな空の色が映っていた。白とも灰ともつかないぼやけた光の中で、僕は今日も絵を描いていた。


「それ、昨日の続き?」


しのの声が、突然近くから降ってくる。

音もなくアトリエに入ってきたらしい。白衣を脱いで椅子にかけ、僕の背後に立ったまま、覗き込んでくる。


「……うん。少しだけ線を重ねた」


「今日のは、色がついてるんだな」


「昨日、混ぜたのが残ってたから」


答えながら、パレットに残った青と灰の中間のような色を見下ろす。乾きかけたその絵具は、まるで雨が降る前の空みたいな匂いがした。

ナイフの先で少しだけ絵具を削って、キャンバスの左端に置いてみる。髪の線の隣、何も描いていない余白が濃い。


「......澄」


「うん?」


「この人、誰?」


唐突な質問。けれど、何度か似たような問いをされたことがある。

だから、僕はいつものように答える。


「分からない。たぶん、いない人」


「へえ……いない人の絵、こんなに丁寧に描くんだ」


「描きたくなるから、描いてるだけだよ」


「ふうん……名前は?」


「つけてない」


「そっか。顔も、まだないんだ」


「……顔を描くのは、最後って決めてる」


「決めてるっていうか、描きたくないだけじゃなくて?」


図星を突かれたみたいで、筆先が止まる。

ほんの一瞬だけ、心のなかに重たい雨粒が落ちる音がした。


「……かもしれない」


しのは何も言わず、僕の隣に腰を下ろす。

彼が隣にいると、空気が少し湿る気がする。安心するのと、苦しくなるのとが同時に来る。


「俺、顔も描いてもらえるような人になりたいけどな」


冗談めかしたその声に、笑えなかった。

彼の顔は、もうずっと前から、僕のなかにある。言葉にできないまま、何度もなぞって、記憶のなかで何度も描いてる。

でも、それをキャンバスに映したら、終わってしまいそうだった。


「……描いたら、名前をつけなきゃいけなくなりそうで」


「じゃあ、まだ描かなくていいよ」


「……」


「俺は、今のままの方が、澄の絵っぽいと思う」


僕の絵。しのがそう言ってくれたのが、うれしくて、怖くて、胸の奥がちくりとした。

きっと、これが“期待”ってやつなんだと思う。

今までは、描いているだけでよかった。言わなくてすむから、怖くなくてすんだから。

でもいま、彼の言葉で、その輪郭がゆっくり浮き上がってしまった。


僕はそっと絵具箱を閉じた。

この続きを描くには、たぶん、まだ覚悟が足りない。

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