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見えない接点と、静かな予感
雨の予報はなかった。けれど空は朝からくすんでいて、風が濡れたような匂いを運んでいた。
午後になっても太陽は顔を出さず、大学の敷地全体が湿った薄墨に覆われている。
美術棟のガラス窓には曇りがちな空の色が映っていた。白とも灰ともつかないぼやけた光の中で、僕は今日も絵を描いていた。
「それ、昨日の続き?」
しのの声が、突然近くから降ってくる。
音もなくアトリエに入ってきたらしい。白衣を脱いで椅子にかけ、僕の背後に立ったまま、覗き込んでくる。
「……うん。少しだけ線を重ねた」
「今日のは、色がついてるんだな」
「昨日、混ぜたのが残ってたから」
答えながら、パレットに残った青と灰の中間のような色を見下ろす。乾きかけたその絵具は、まるで雨が降る前の空みたいな匂いがした。
ナイフの先で少しだけ絵具を削って、キャンバスの左端に置いてみる。髪の線の隣、何も描いていない余白が濃い。
「......澄」
「うん?」
「この人、誰?」
唐突な質問。けれど、何度か似たような問いをされたことがある。
だから、僕はいつものように答える。
「分からない。たぶん、いない人」
「へえ……いない人の絵、こんなに丁寧に描くんだ」
「描きたくなるから、描いてるだけだよ」
「ふうん……名前は?」
「つけてない」
「そっか。顔も、まだないんだ」
「……顔を描くのは、最後って決めてる」
「決めてるっていうか、描きたくないだけじゃなくて?」
図星を突かれたみたいで、筆先が止まる。
ほんの一瞬だけ、心のなかに重たい雨粒が落ちる音がした。
「……かもしれない」
しのは何も言わず、僕の隣に腰を下ろす。
彼が隣にいると、空気が少し湿る気がする。安心するのと、苦しくなるのとが同時に来る。
「俺、顔も描いてもらえるような人になりたいけどな」
冗談めかしたその声に、笑えなかった。
彼の顔は、もうずっと前から、僕のなかにある。言葉にできないまま、何度もなぞって、記憶のなかで何度も描いてる。
でも、それをキャンバスに映したら、終わってしまいそうだった。
「……描いたら、名前をつけなきゃいけなくなりそうで」
「じゃあ、まだ描かなくていいよ」
「……」
「俺は、今のままの方が、澄の絵っぽいと思う」
僕の絵。しのがそう言ってくれたのが、うれしくて、怖くて、胸の奥がちくりとした。
きっと、これが“期待”ってやつなんだと思う。
今までは、描いているだけでよかった。言わなくてすむから、怖くなくてすんだから。
でもいま、彼の言葉で、その輪郭がゆっくり浮き上がってしまった。
僕はそっと絵具箱を閉じた。
この続きを描くには、たぶん、まだ覚悟が足りない。