2
視線の気づきと、無意識の輪郭
雨は、昨日よりもすこし優しい音を立てていた。
朝から断続的に降ってはやみ、午後になってまた静かに降り出したところだった。
美術棟の窓には小さな水の粒が並んでいて、濡れたガラス越しに見る外の景色は、どこか夢の中のように淡かった。
僕はアトリエの窓際でスケッチブックをめくっていた。描きかけの線が並ぶページのなかに、少しだけ紙が波打ったものがあった。たぶん昨日の帰り、鞄に入れる前に雨に触れてしまったのだと思う。水分を吸った鉛筆の線は、薄くにじんでいた。
その絵は、何の変哲もない“手首”だった。
シャツの袖からのぞいた細い手。骨のかたち。指の節。⎯⎯そして、手首の少し上。ほんの小さな黒い点。
それを描いた覚えはない。でも、確かに描いてあった。
描いた“僕の”線に、僕自身が違和感を持った。まるで誰かの模写をしていたような感覚。けれど、参考資料もない。記憶もない。
ただ、僕は知っている。
篠原の、右の手首には小さなほくろがある。
それを、思い出そうとしたわけでもない。意識して描いたわけでもない。
でも、描いていた。昨日の僕の手が、なぜか、それを知っていたみたいに。
扉がきぃ、と軋んだ。振り向かなくても誰かが入ってくる気配があった。
そのまま流しのほうに歩いていく足音。濡れた靴底の水が、床に細く残る。
瓶の音。水道の音。硝子の匂いにまじって、酸の香りが微かに漂う。
「なに描いてんの」
声だけで、しのだと分かる。
「……ただの手」
「へえ。誰の?」
「分かんない。なんとなく、描いてた」
「ふーん」
返事をして、彼は水を止めた。背後で布巾の絞られる音がする。
「俺の、手に似てる気がしたけど」
「……そんなことないよ」
言いながら、僕は視線を落とす。手首の影の部分に、昨日より濃く鉛筆を重ねた。黒い点は、塗りつぶさなかった。
消すのは簡単だった。でも、そうはしなかった。
しのは横を通って、隣の椅子に腰を下ろした。白衣の袖をまくると、少し湿った肌に小さな点が見える。
僕はそれを見ないふりをして、スケッチブックのページを静かに閉じた。
「……今日の雨、昨日よりぬるい気がする」
「うん。蒸し暑い」
「でも、このくらいの温度のほうが、描きやすいんだろ?」
「絵具は乾きにくいけどね。湿ってる方が、線は柔らかくなる」
「澄の絵って、全部、ちょっと濡れてるよな」
「そう?」
「うん。雨が降ってない日でも、そう思う」
そう言われたのは、たぶん初めてだった。
けれど、反論もしなかった。
僕は、ずっとしののことを描いている。彼の名前を呼ばずに、輪郭だけをなぞって。言葉にできない感情を、にじませるように。
だから、描くたびに、雨の中にいるみたいに胸が濡れる。
この絵が終わってしまったら、僕の気持ちも終わってしまうかもしれない。
だから、完成させたくないまま、毎日続きを描いている。
「……俺の顔、描いたことある?」
「ないよ」
「そっか」
しのはそれ以上何も言わなかった。
でも、ほんの少し、僕のほうを見ていた気がする。
雨の音が窓を撫でていた。昨日よりすこし優しく、だけど、胸の奥に染み込んでいく音だった。