表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
透雨  作者: 伊禮 灯遥
2/9

2

視線の気づきと、無意識の輪郭

雨は、昨日よりもすこし優しい音を立てていた。

朝から断続的に降ってはやみ、午後になってまた静かに降り出したところだった。

美術棟の窓には小さな水の粒が並んでいて、濡れたガラス越しに見る外の景色は、どこか夢の中のように淡かった。


僕はアトリエの窓際でスケッチブックをめくっていた。描きかけの線が並ぶページのなかに、少しだけ紙が波打ったものがあった。たぶん昨日の帰り、鞄に入れる前に雨に触れてしまったのだと思う。水分を吸った鉛筆の線は、薄くにじんでいた。


その絵は、何の変哲もない“手首”だった。

シャツの袖からのぞいた細い手。骨のかたち。指の節。⎯⎯そして、手首の少し上。ほんの小さな黒い点。

それを描いた覚えはない。でも、確かに描いてあった。

描いた“僕の”線に、僕自身が違和感を持った。まるで誰かの模写をしていたような感覚。けれど、参考資料もない。記憶もない。


ただ、僕は知っている。

篠原の、右の手首には小さなほくろがある。

それを、思い出そうとしたわけでもない。意識して描いたわけでもない。

でも、描いていた。昨日の僕の手が、なぜか、それを知っていたみたいに。


扉がきぃ、と軋んだ。振り向かなくても誰かが入ってくる気配があった。

そのまま流しのほうに歩いていく足音。濡れた靴底の水が、床に細く残る。

瓶の音。水道の音。硝子の匂いにまじって、酸の香りが微かに漂う。


「なに描いてんの」


声だけで、しのだと分かる。


「……ただの手」


「へえ。誰の?」


「分かんない。なんとなく、描いてた」


「ふーん」


返事をして、彼は水を止めた。背後で布巾の絞られる音がする。


「俺の、手に似てる気がしたけど」


「……そんなことないよ」


言いながら、僕は視線を落とす。手首の影の部分に、昨日より濃く鉛筆を重ねた。黒い点は、塗りつぶさなかった。

消すのは簡単だった。でも、そうはしなかった。


しのは横を通って、隣の椅子に腰を下ろした。白衣の袖をまくると、少し湿った肌に小さな点が見える。

僕はそれを見ないふりをして、スケッチブックのページを静かに閉じた。


「……今日の雨、昨日よりぬるい気がする」


「うん。蒸し暑い」


「でも、このくらいの温度のほうが、描きやすいんだろ?」


「絵具は乾きにくいけどね。湿ってる方が、線は柔らかくなる」


「澄の絵って、全部、ちょっと濡れてるよな」


「そう?」


「うん。雨が降ってない日でも、そう思う」


そう言われたのは、たぶん初めてだった。

けれど、反論もしなかった。

僕は、ずっとしののことを描いている。彼の名前を呼ばずに、輪郭だけをなぞって。言葉にできない感情を、にじませるように。


だから、描くたびに、雨の中にいるみたいに胸が濡れる。

この絵が終わってしまったら、僕の気持ちも終わってしまうかもしれない。

だから、完成させたくないまま、毎日続きを描いている。


「……俺の顔、描いたことある?」


「ないよ」


「そっか」


しのはそれ以上何も言わなかった。

でも、ほんの少し、僕のほうを見ていた気がする。

雨の音が窓を撫でていた。昨日よりすこし優しく、だけど、胸の奥に染み込んでいく音だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ