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雨の始まりと、描く前の鼓動
昼過ぎの雨は、まるで朝の続きを忘れたような、鈍い降り方をしていた。
灰色の空は変わらず厚く、大学の美術棟の窓を静かに曇らせている。
御影 澄は、いつものアトリエの片隅で絵具を混ぜていた。筆ではなく、パレットナイフの先で、静かに。
美術学科の2年になってからは、自然とこの棟にいる時間が長くなった。
描いているのは誰なのか⎯⎯その問いに澄は、いつだって答えない。
ただ、キャンバスに浮かび上がる後ろ姿の襟の角度や、首筋の影が、毎回ほんのわずかに似ていて。
けれど名前をつけてしまえば、その絵は“終わってしまう”気がして、澄は描くことだけを続けている。
アトリエの空気は、いつもと変わらないはずだった。
けれど今日は、雨音の切れ間に、誰かの気配が紛れ込んだ。
扉の開く音。スニーカーの濡れた足音。白衣の袖が揺れる音。
澄は、手を止めなかった。代わりに声が落ちた。
「また、勝手に入ってきた」
「鍵、開いてた」
そう返したのは、理学部の3年、篠原 透真だった。
雨の日に実験室の排水が詰まり、近くの美術棟の流しを借りに来たのが最初だった。
それをきっかけに、透真はアトリエへ顔を出すようになった。
いつの間にか、それは習慣にすらなっている。
「しのは、雨が降ると必ず来るね」
「澄こそ、晴れててもここにいそうだけど」
そんなふうに話すことが、今では当たり前になっている。
中学までは同じ町で育ち、いつも一緒にいた。
高校からは別々だったけれど、大学で偶然また再会した。
偶然⎯⎯と呼ぶには、あまりに自然な流れだった。
篠原は、実験器具を洗う手を止めずに言う。
「今日の、描いてるの、また……同じ?」
「……知らない。気づいたらこうなってた」
篠原はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、水の音と、瓶の触れ合う音が続く。
澄はふと、自分のパレットの上で混ざり合う青に目を落とした。
どこか、彼の着ていたシャツの色に似ている。
それに気づいた瞬間、ナイフの先がわずかに揺れた。
「澄、さ」
「ん」
「高校のときさ、なんか、こういうの、描いてた?」
唐突な質問だった。澄は手を止め、彼の方を見ないまま答える。
「描いてない。描けなかった」
「……ふーん」
それきり、篠原はまた黙る。
その沈黙が、澄には少しだけ重たく感じられた。
「ねえ、しの」
「ん?」
「傘、持ってきた?」
「持ってきてない。今日も忘れた」
「……やっぱり」
澄は溜息の代わりに、ナイフで青をもう一度すくった。
それをキャンバスに置くと、色は少しだけ深く滲んだ。
「また、風邪ひくよ」
「そん時は、看病して」
「やだよ」
そう言いながら、澄は顔を見ずに微かに笑った。
その笑みを、篠原は見ていたかもしれないし、見ていないかもしれない。
けれど、その瞬間の空気だけは、確かにふたりで共有していた。
外の雨は、まだ止みそうにない。
澄はその音を聞きながら、少しだけ力を抜いて筆を握り直した。
傘を忘れても、来てくれるひと。
その背中を、今日もまた描いていた。