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第98回:三国志英雄列伝⑥

ミニコラムの続きです。


周瑜しゅうゆ

『私は周公瑾しゅうこうきんだ。孫策そんさくとは同い年で幼馴染で兄弟みたいなものさ。

 私たちは幼い頃から学問や武芸を共にし、互いに才能を認め合っていたのさ。孫策そんさくが各地で転戦して小覇王しょうはおうと呼ばれた頃は、重要拠点の太守を務めていたんだ。

 私は軍事も得意だったが音楽にも精通していたんだ。特に音律おんりつを識別する能力に優れていた。だから、たとえ酒に酔っていても、演奏のわずかなミスにも気づき、振り返って注意した事もあるんだ。今でいう絶対音感ぜったいおんかんの持ち主だったのさ。

 私は周りから容姿端麗ようしたんれいとも言われたがそれを鼻にかけてしまっては大望が果たせない。だからなるべく、物腰も柔らかく、多くの人々から好かれるように配慮したんだ。

 「謙虚で、才能があることを悟られず、決しておごることなく」って自分に言い聞かせてね。

 やがて、私と孫策そんさくは大きく領土を増やして天下統一を現実にしようとしていた。しかし、孫策そんさくは若くして亡くなった。無理をしすぎたのだ。その後、弟の孫権そんけん殿が後を継いだ。

 私は軍才を買われて、軍の最高司令官になったのさ。この時、北では曹操そうそう袁紹えんしょうを倒して意気揚々だった。天下統一を狙い我が江東こうとうを征服しようとしていた。私は水軍を使ってこれを追い払う事にした。赤壁せきへきの戦いというやつだね。ここで私はニセの裏切り者と火計を使ったんだ。

 私の部下である老将の黄蓋こうがい殿にお願いして、曹操そうそう軍に偽りの降伏を申し出てもらった。そして、船に火を放ち、曹操そうそう軍の船団に突入する「苦肉くにくの計」を実行したのさ。

 そこで私は曹操そうそう軍を信じさせるための演技とはいえ黄蓋こうがい殿にひどい拷問を行ってしまった。心が痛んだが黄蓋こうがい殿の我慢強さには感服するばかりだったよ。

 この作戦は曹操が官渡かんとの戦いで使った戦術の逆手を取ったのさ。曹操そうそうは「戦局を決定づける敵将の寝返りがあればまた勝てるはずだ」と考えていたはずだからね。この策はうまくはまった。

 曹操そうそう軍の船団は火の海にする事ができた。しかし、曹操はさすがに逃げ上手だった。船団などは打ち捨てられて陸路で一目散に逃げられてしまった。

 追撃した劉備りゅうび軍もだらしなくて曹操そうそうを取り逃がしたんだ。

 この結果、曹操そうそう軍壊滅は避けられてしまったよ。私はこの勢いで逆に南から北へ攻めのぼる戦略を考えていた。を打ち倒して天下統一する事が目標だった。しかし、私は赤壁せきへきの戦い後の荊州けいしゅう争奪戦での矢傷やきずが元で亡くなってしまった。悔しい事だよ。』


魯粛ろしゅく

『私は魯子敬ろしけいでございます。私は三国志演義だと気弱で諸葛亮しょかつりょう殿に先手を取られる損な役回りなんです。

 しかし、実際は呉の支柱となる人材だったのですよ。

 私は裕福な家に生まれました。しかし、若いころから困っている人を私財を使って助けていました。地元の名士と交流もしていたのです。変わり者だったんですね。当時の言い方で言うときょうという生き方です。

 私と周瑜しゅうゆ殿は若い頃からの友人でした。周瑜しゅうゆ殿が食料を求めて私を訪ねてきたときは、私は所有していた米蔵を惜しみなく分け与えたのです。そんな気前のいい私を周瑜しゅうゆ殿が気に入って下さりました。

 周瑜しゅうゆ殿は私を孫権そんけん様に推薦してくれたのです。そして、孫権そんけん様も一目会って私を気に入って下さりました。

 私のスタイルは雄々(おお)しく立派であった事もプラスに働いたのでしょう。ありがたいことです。

 この結果、私はの家臣になったのです。ちなみに私は、若い頃の経験のお陰で、外交がいこうが得意でした。だから、諸葛亮しょかつりょう殿との交渉も担当したのです。

 赤壁の戦いでの同盟や、孫権様の妹君と劉備りゅうび殿との婚姻こんいんを取りまとめたのも私です。

 私は、「曹操そうそうという大敵に対抗するためには劉備りゅうびに力を与えておくべきです」と孫権に進言したこともあります。

 え?劉備りゅうびが好きなのかって?違います私はアンチ曹操そうそう派だったのです。「蜀と同盟して魏を倒す」事が私の基本原則だったのですよ。

 なお、私には実は武将スキルもあったのです。奇策を得意としていました。意外でしょ。さらに太守も経験しました。

 だから、マルチな能力があったのですよ。そのお陰で周瑜しゅうゆ殿の死後は私が全軍の総督に指名されました。

 ですが、45歳という若さで病死したのが無念です。私は、亡くなる直前に孫権そんけん様に対して後継者として呂蒙りょもうを推薦しました。私は、呂蒙りょもうの才能を高く評価しており、彼ならばの国を託せる人物だと考えていたのです。』


呂蒙りょもう

呂子明りょしめいと申す。吾輩が生家は貧しくてな。そこから抜け出すために武官となる事にしたのだ。乱暴者ではあったが武芸には自信があったんだ。

 俺は若い頃、姉の夫を頼って江南こうなんに渡った。ある時、姉の夫が仕えていた役人が吾輩を馬鹿にしたため、吾輩は怒ってその役人を斬り殺し、同郷の者を頼って逃亡した事もある。血の気が多かったのさ。

 その後、校尉こうい袁雄えんゆうを頼って自首したのだ。するとたまたま、この事件が孫策そんさく様の耳に入り、孫策そんさく様は吾輩に面会を求めた。そして、孫策そんさく様は吾輩の非凡さを見抜き、側近に取り立ててもらった。

 孫策そんさく様が亡くなり孫権そんけん様が後を継いだ時は、借金してでも自軍を赤備あかぞなえでアピールしたのさ。孫権そんけん様から「軍の統制が整っている」と褒めていただいた。

 そして、数々の戦いで功績を挙げた。特に黄祖こうそとの戦いでは敵将を討ち取るなど、武勇を示したのだ。こうして吾輩は出世して行った。

 ただし、武芸には自信があったが生来貧乏人の無学者だ。しかし、孫権そんけん様から「さらに上を目指すなら学問が必要だぞ」とさとされたのだ。そこから一念発起して吾輩は勉学にも励んだのだ。

 魯粛ろしゅく殿が久しぶりに吾輩に会って話したときに「あの呂ぼうやがいつの間にかいっぱしの人物になっておる」と驚いてな。

 吾輩は「サムライは別れて三日ほど経つと目を見張るように成長するものですぞ」と言い返したのだ。魯粛ろしゅく殿から一本取るなど痛快であった。

 その後は、荊州けいしゅうに居座る関羽かんうを討伐したのだ。関羽かんう慢心まんしんさせるためにワザと病気のフリをした。そして、当時まだ無名だった陸遜りくそんと交代したんだ。そして、関羽かんうが油断して本拠地を留守にした際に、吾輩と陸遜りくそんで一気に攻めかかった。

 さすがに関羽かんう奮戦ふんせんした。だから、ダメ押しの計略を仕掛けた。吾輩はしょくの兵士たちに「関羽かんう軍の兵士たちの家族は呂蒙りょもう軍が丁重に保護しているぞ」という情報を広めたのだ。むろん事実だぞ。

 この事が兵士たちのやる気を削いだ。これで関羽かんう軍は戦えなくなった。吾輩は関羽かんうを捕らえる事に成功したのだ。吾輩は関羽かんう孫権そんけん様の元に送った。

 そして関羽かんうは降伏を拒否して斬られた。関羽かんうほどの男が呉に仕官するはずがない。だから、吾輩は驚かなかった。

 そしてその後、すぐに吾輩も病死した。だがこれは呪いではないと思うぞ』

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