ミニコラムの続きです。
周の成王には周公旦と召公奭という優れた補佐役がいました。
その次の君主である康王は召公奭と畢公高という優れた人物に補佐を受けました。
ん?要約するとどっちも補佐した召公奭って、凄えんじゃね?って話です。
ちなみに、召公奭は、文王、武王、成王、康王の四代に仕えました。太公望や周公旦と並び、周建国の功臣の一人です。
召公奭の姓は姫または、姞とされ、周王室の宗室の出身と言われています。若い頃から文王に仕え、その才能を認められていました。
武王の時代には、殷を滅ぼすための軍事作戦に参加し、周王朝の建国に貢献しました。
周の国の建国後は、広い領土をどうやって治めるかが課題でした。そこで、成王の時代には、召公奭は周公旦と協力して、国を二つに分け、それぞれが自分の担当地域を治めることにしました。
召公奭は西側の陝西(せんせい:現在の陝西省)を、周公旦は東側の陝東を治めたのです。これは「分陝而治」と呼ばれました。
その後、召公奭は、燕の地を与えられ、燕国の始祖となりました。燕国は、現在の北京市周辺に位置し、後に戦国七雄の一つとして発展しました。
燕の地はさらに後には三国志の英雄、劉備が誕生しています。なお、現在では燕の地は中国の首都になっています。歴代の中国にとって燕は重要な地域になったのです。
ただし、召公奭は息子を燕に送り、自分は都に残って政治を続けたそうです。召公奭は、ただ偉かっただけでなく、人々(ひとびと)にとても慕われていました。
裁判においても、公平で公正な判断を下したと伝えられています。彼が領土を巡回して人々(ひとびと)の話を聞き、裁判などの問題を解決する時、いつも甘棠という木の下で休んでいたそうです。
甘棠はヤマナシの木のことで、召公奭が亡くなった後も、人々(ひとびと)はその木を切らずに大切にし、彼のことを懐かしんだと言われています。
このエピソードから、「甘棠の愛」という言葉が生まれました。これは、立派な政治家が人々(ひとびと)に慕われることを表す言葉として、今も使われています。
召公奭が活躍した時代の終盤は、周もよく国が治まり四十年も刑罰が用いられなかったといいます。これを成康の治といいます。
しかし、その後、周は徐々(じょじょ)に衰退します。四代目から九代目にかけての間にちょいちょいマズい政治が繰り返され、周王朝への不信感が蓄積されました。
十代の厲王の時に彼が富を独占した事をきっかけに諸国の民衆の不満が爆発します。もう、大反乱です。
厲王は事もあろうに逃げます。玉座を捨てて、辺境に一目散にランナウェイです。居なくなります。
「王が逃げた?おぅ…。」「王がいないぜどうするよ?」という話になります。当然。
仕方なく、当時の重臣、周定公と召穆公とが話し合って、政治を勧めます。言い方を変えると重臣たちが「共に和して」政治を行ったのです。これが共和制の語源です。
よって、共和とは王がいない状態を意味します。実はこの出来事が発生した共和元年は紀元前八四一年であることがわかっています。
司馬遷の史記では、ここから年代が明記されているためです。よって、共和元年は、中国史の基準となる出来事なのです。
その後、別の王が建てられ周王朝は存続します。しかし、パッとしない王でした。
さらに、その次の幽王は、更なるダメ王様でした。周のダメ君主幽王は、美姫の褒姒に溺れて国を傾けました。この様な女性を「傾国の美女」といいます。
幽王はいい加減な政治を行います。そして反乱が起きます。首都の長安はボロボロになりました。
仕方なく、周は東側にある副都の洛陽に遷都します。