第72回:曹操の台頭
ミニコラムの続きです。
董卓が殺された後、権力を握ったのは曹操でした。曹操は宦官を祖父に持っています。だから、外戚派か宦官派かと言われると宦官派でした。
しかし、豪族としての立場でもありました。つまり、地方に勢力をもつ一族だった。おじいさんが有力な宦官に気に入られて養子になった。宦官の中央権力と豪族の地方財力の両方を持っていたことになります。
しかし、董卓に首都の洛陽をめちゃにされた事で、外戚も、宦官も力を失います。なので、両者の争いは両者消滅で引き分けになりました。
曹操は金持ちのボンボンでした。しかし、実家が国を左右する程の力を持っていたのではありません。だから、黙っていても乱世の勝者になれるほど有利な立場ではなかったのですね。
しかし、曹操は優秀な人材を愛しました。軍師や政治家として使えそうな優秀な人材は片っ端からスカウトします。荀彧、荀攸、賈詡、郭嘉などが該当します。
「名族として生まれたにも関わらず、努力せず仕事ができない奴が多かった。そんな奴らは、くだらない権力争いと怠惰な遊びに時間を費やしてばかりだ。能力のあるやつに生産性の高い仕事をさせる事が重要だ。そうすることで強い軍団ができて、国も栄えるのだ」と考えたのです。
このため、優秀な武将も大好きでした。親族にも夏侯惇や夏侯淵、曹仁などの勇将がいたのにも関わらず、さらに次々と武将をスカウトしました。
典韋、徐晃、許褚、楽進、于禁、李典などが該当します。「戦争の勝敗は将官の質がモノをいうのだ。兵士の数、物資の補給や、兵の訓練、軍規の整備も重要だが、それらが両者拮抗した場合は、勇猛な指揮官に率いられた軍の方が勝利する。だからワシは名将と言われる将をたくさんスカウトしたいのだ」と考えたのです。
そして曹操は黄巾の乱の残党を雇い入れ、自分の軍に吸収しました。ここで凄いことを思いつきます。「黄巾の乱に参加していた兵たちは要は食えなくなった民衆たちの成れの果てだ。だから罰を与えるのではなく。そのままワシの兵にしよう。しかし、そうすると、兵力は一気に増えるが食料が足りなくなるな。よし、兵士達に農業をさせよう。そして、食料を生産する兵士兼農民となってもらおう」と考えたのです。
このような、農業と兼業する兵士を屯田兵と言います。曹操の場合は青州兵という言い方をしました。曹操は、彼らに土地を割り当てて農産物の生産に従事させたのです。農閑期は訓練を行って兵士としても鍛えます。
このように、屯田兵は食料を生産できる。兵力としても使える。いいことずくめのように思えます。しかし、屯田兵には大きな欠点があります。
それは「割り当てた土地から動かせない」という事です。敵地に連れていき、敵拠点を攻めるなんて事はできません。そんなことしたら農作物の世話ができず、農地が荒れてしまいます。この為、曹操は青州兵の活用でめちゃくちゃ兵力を増強させました。
だから、曹操は「絶対に敵に奪われない本拠地を得た」事になります。これは大きな強みです。しかし、青州兵は、本拠地の防衛戦にしか使えません。曹操は実は外征に使える兵力が少なかったのです。
皇帝の身柄を抑えているからある程度有利な状況にはいました。しかし、まだ乱世の勝利者とは言えませんでした。彼には対抗馬となるライバルがいたからです。
曹操の初期のライバルは袁紹でした。血統がよく、宮廷に顔が利き、兵力も多かったのです。実は曹操と袁紹は青年時代は遊び友達でした。
例えば、ある時、若き日の曹操と袁紹は、ある家の結婚式を覗き見していました。そこで、曹操は袁紹に「花嫁を盗みに行こうぜ」と提案しました。袁紹は乗り気ではありませんでしたが、曹操に押し切られる形で行動を共にすることになりました。二人は、夜中にその家に忍び込み、花嫁を連れ出そうとしました。
しかし、途中で家の者に気づかれ、騒ぎになってしまいました。曹操と袁紹は、慌てて逃げ出しましたが、その騒動は近隣にも広がり、二人はしばらくの間、噂の的となったそうです。またある時は、曹操と袁紹は、とある家の庭に忍び込み、何か悪戯をしようと企んでいました。
しかし、物音を立ててしまい、家の者に気づかれてしまいました。慌てた二人は、逃げようとしましたが、その時、曹操が突然大声で「泥棒がここにいるぞ!」と叫びました。この叫び声に、家の者はもちろん、近隣の住民も驚き、騒ぎになりました。混乱に乗じて、曹操と袁紹はまんまと逃げ出すことに成功しました。
つまり、曹操と袁紹は若いころはよくつるんでいたずらをして、その時は常に曹操が主導権を握っていたのです。といいつつ若い時は二人は仲のいい友人だったのです。しかし、お互いが独立勢力の盟主になると対立するようになります。
曹操と袁紹はやがて天下分け目の決戦を行う事になります。それが「官渡の戦い」です。