ミニコラムの続きです。
酒池肉林や暴政で悪さした紂王はその名の通り誅されました。殺されたって意味です。
誅したのは周の武王です。この時、武王を補佐したのは太公望と周公旦です。なお、周公旦は武王の弟です。
武王は商王朝を倒して周王朝を建国した後すぐに亡くなります。後を継いだのは武王の息子成王ですが、彼はまだ年少でした。この為、周公旦は摂政となり甥を補佐します。
心ない臣下は「いずれ、自分が取って代わり王になるのではないか?」と疑います。無理もありません、後見人として権力を得た人物が後で「立派な大人になったから権力を返すね」となった例は歴史上、後にも先にもほとんどありません。
権力を得た人間は、権力の魔力に取りつかれます。だから、その権力を誰かに渡したり返したりしないものなのです。しかし、周公旦はちゃんと政治を代行して後見を行い、王が成年になったら権力を返しました。
その誠実な態度に後世の人も感動します。蜀漢の諸葛亮も周公旦の態度を手本としました。
また、ずっと後年の統一王朝である、清の摂政ドルゴンは明国の後継として紫禁城に入城した事があります。この時ドルゴンは「私は幼い甥の代理人として権力者となり中国の主となった。しかし、甥を殺して取って代わるつもりはない。時が来たら王に権力を返し、身を引くつもりだ」という意思を持っていました。
この自身の考えを人々(ひとびと)にたった一言で説明します。「私は周公旦として来た。」と。それだけで伝わるほどに周公旦の誠実さは後世にまで伝わっていたんですね。
周公旦は、周王朝の初期の政治・文化の基礎を築きました。国内の反乱を鎮め、周王朝の支配を安定させたのです。
それだけではなく、「周礼」を制定し、周王朝の政治制度や礼制を整えました。
周公旦は政治姿勢として、儀式と音楽を重視します。秩序を保つ為には君主に対して敬意が必要であり、それは形に出さないといけない。それが儀式である。そして、儀式は退屈なものではダメで、優雅な雰囲気でなければいけない。それが音楽である。という考え方でした。
後世の孔子という人は、この周公旦の考え方にいたく感動しました。彼を理想の聖人として手本にして、周公旦の統治した時代は、儒教にとっての「理想の治世」として記録されるのです。
周公旦マニアの孔子は常に彼が夢に出てくる事を望みます。周公旦が、夢に出てこない日々(ひび)が続くと悲しくなり嘆いたそうです。
なお、周公旦から権力を返上された成王は、その後、東方の夷族を討伐し、周王朝の支配領域を拡大しました。さらに、成王は、周王朝の都、洛邑を建設し、政治・経済・文化の中心地としました。
そして、成王は、息子の康王に王位を譲り、崩御しました。
成王と、次の康王の時代は「成康の治」と称され、周王朝の最盛期とされています。
成康の治は、周王朝が最も安定し、繁栄した時代として、後世に高く評価されています。
司馬遷の『史記』にも、「成康の際、天下安寧、刑錯して四十余年不用。つまり、天下は安寧となり、刑罰は四十余年用いられなかった」と記されています。
この最盛期の立役者として周公旦は大きな役割を果たしたのです。