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第07回:周公旦として北からキター

ミニコラムの続きです。

 酒池肉林しゅちにくりん暴政ぼうせいさした紂王ちゅうおうはそのとおちゅうされました。ころされたって意味いみです。

 ちゅうしたのはしゅう武王ぶおうです。このとき武王ぶおう補佐ほさしたのは太公望たいこうぼう周公旦しゅうこうたんです。なお、周公旦しゅうこうたん武王ぶおうおとうとです。


 武王ぶおうしょう王朝おうちょうたおしてしゅう王朝おうちょう建国けんこくしたあとすぐにくなります。あといだのは武王ぶおう息子むすこ成王せいおうですが、かれはまだ年少ねんしょうでした。このため周公旦しゅうこうたん摂政せっしょうとなりおい補佐ほさします。


 こころない臣下しんかは「いずれ、自分じぶんってわりおうになるのではないか?」とうたがいます。無理むりもありません、後見人こうけんにんとして権力けんりょく人物じんぶつのちで「立派りっぱ大人おとなになったから権力けんりょくかえすね」となったれい歴史上れきしじょうのちにもさきにもほとんどありません。


 権力けんりょく人間にんげんは、権力けんりょく魔力まりょくりつかれます。だから、その権力けんりょくだれかにわたしたりかえしたりしないものなのです。しかし、周公旦しゅうこうたんはちゃんと政治せいじ代行だいこうして後見こうけんおこない、おう成年せいねんになったら権力けんりょくかえしました。


 その誠実せいじつ態度たいど後世こうせいひと感動かんどうします。蜀漢しょくかん諸葛亮しょかつりょう周公旦しゅうこうたん態度たいど手本てほんとしました。


 また、ずっと後年こうねん統一王朝とういつおうちょうである、しん摂政せっしょうドルゴンは明国みんこく後継こうけいとして紫禁城しきんじょう入城にゅうじょうしたことがあります。このときドルゴンは「わたしおさなおい代理人だいりにんとして権力者けんりょくしゃとなり中国ちゅうごくあるじとなった。しかし、おいころしてってわるつもりはない。ときたらおう権力けんりょくかえし、くつもりだ」という意思いしっていました。


 この自身じしんかんがえを人々(ひとびと)にたった一言ひとこと説明せつめいします。「わたし周公旦しゅうこうたんとしてた。」と。それだけでつたわるほどに周公旦しゅうこうたん誠実せいじつさは後世こうせいにまでつたわっていたんですね。


 周公旦しゅうこうたんは、周王朝しゅうおうちょう初期しょき政治せいじ文化ぶんか基礎きそきずきました。国内こくない反乱はんらんしずめ、周王朝しゅうおうちょう支配しはい安定あんていさせたのです。


 それだけではなく、「周礼しゅうれい」を制定せいていし、周王朝しゅうおうちょう政治制度せいじせいど礼制れいせいととのえました。


 周公旦しゅうこうたん政治姿勢せいじしせいとして、儀式ぎしき音楽おんがく重視じゅうしします。秩序ちつじょたもためには君主くんしゅたいして敬意けいい必要ひつようであり、それはかたちさないといけない。それが儀式ぎしきである。そして、儀式ぎしき退屈たいくつなものではダメで、優雅ゆうが雰囲気ふんいきでなければいけない。それが音楽おんがくである。というかんがかたでした。


 後世こうせい孔子こうしというひとは、この周公旦しゅうこうたんかんがかたにいたく感動かんどうしました。かれ理想りそう聖人せいじんとして手本てほんにして、周公旦しゅうこうたん統治とうちした時代じだいは、儒教じゅきょうにとっての「理想りそう治世ちせい」として記録きろくされるのです。


 周公旦しゅうこうたんマニアの孔子こうしつねかれゆめてくることのぞみます。周公旦しゅうこうたんが、ゆめてこない日々(ひび)がつづくとかなしくなりなげいたそうです。


 なお、周公旦しゅうこうたんから権力けんりょく返上へんじょうされた成王せいおうは、そののち東方とうほう夷族いぞく討伐とうばつし、周王朝しゅうおうちょう支配領域しはいりょういき拡大かくだいしました。さらに、成王せいおうは、周王朝しゅうおうちょうみやこ洛邑らくゆう建設けんせつし、政治せいじ経済けいざい文化ぶんか中心地ちゅうしんちとしました。


 そして、成王せいおうは、息子むすこ康王こうおう王位おういゆずり、崩御ほうぎょしました。


 成王せいおうと、つぎ康王こうおう時代じだいは「成康せいこう」としょうされ、周王朝しゅうおうちょう最盛期さいせいきとされています。


 成康せいこうは、周王朝しゅうおうちょうもっと安定あんていし、繁栄はんえいした時代じだいとして、後世こうせいたか評価ひょうかされています。


 司馬遷しばせんの『史記しき』にも、「成康せいこうさい天下安寧てんかあんねい刑錯けいさくして四十余年しじゅうよねん不用ふよう。つまり、天下てんか安寧あんねいとなり、刑罰けいばつ四十余年しじゅうよねんもちいられなかった」としるされています。


 この最盛期さいせいき立役者たてやくしゃとして周公旦しゅうこうたんおおきな役割やくわりたしたのです。



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