第65回:雲台二十八将①
ミニコラムの続きです。
雲台二十八将とは、中国の後漢時代の初代皇帝、光武帝が天下統一を成し遂げるにあたって、多大な貢献をした28人の功臣たちのことです。
後漢の都、洛陽の宮殿の中に「雲台」という名の高殿がありました。ここに、光武帝の息子である明帝が命じて、父の功臣たち、つまり雲台二十八将の肖像画を飾ったことから、この名で呼ばれるようになりました。今回と次回はこの中から特に活躍した人物にスポットライトを当てて紹介したいと思います。
〇呉漢
『ワシは呉漢という、後漢の呉漢だ。ギャクではないぞ偶然だ。ワシは貧しい家に生まれてな。小役人の職を得たが、客が法を犯してな。何故かワシまでお尋ね者になった。
その後、劉秀様が挙兵したことを知り、劉秀様に仕える身になったのだ。鄧禹のヤツがワシの才能を見抜いてな。抜擢してもらったのだ。鄧禹は戦いは弱いが人を見る目は確かだからな。
その後は、斬った。敵を斬ったのだ。斬って斬って斬りまくった。劉秀様の為に、ワシにはそれしかできぬからな。平穏な日々などつまらん。だからワシは数々の戦いで先頭に立って戦い、敵を打ち破ったのだ。
戦いがない時は暇があれば常に武具の手入れをしておった。憎い奴は皆殺しがワシのモットーだ。なぜそんなに殺すのかだと?復讐は生き甲斐だからな。それに、劉秀様は光だ、輝ける名君よ。ならば、影も必要であろう?劉秀様の手を汚さぬためにもワシは殺すのだ。
特に、公孫述との戦いでは、ワシは総大将として軍を率い、激戦の末に勝利を収めた。これにより劉秀様の天下統一は完成したのだ。なお、公孫述討伐後、ワシはヤツの本拠地だった成都の街を徹底的に破壊した。「残酷だ!やりすぎではないか?」と言われたがワシは気にしない。「劉秀様に逆らうとひどい目に合う。絶対に逆らってはいけない」と思わせる事が重要なのだ。最後まで抵抗した勢力には、なおさら見せしめが必要なのだ。
なお、ワシの死後、「呉漢の送り名をどうするか」という議論になった。家臣が「斬って斬って斬りまくった武人の人生だったのですから、武侯はどうですかね?」と奏上した。しかし、劉秀様は、「呉漢が斬って斬って斬りまくったのは私への忠義ゆえだ。だから、送り名は忠侯でいいだろう?」と言ったのだ。さすが劉秀様は私の真意を理解しておられた。嬉しい話だ。』
〇賈復
『俺は賈復という。命知らずの剛毅な人柄だと劉秀様に愛されたものよ。劉秀様に仕えると武将として活躍してな。俺は、戦場では常に先頭に立ち、敵を圧倒する姿から、「戦いの鬼」と呼ばれていたんだぜ。
数々の戦いで多くの傷を負ったが、それでも戦い続けたんだ。その傷だらけの姿は、「傷だらけのローラ」も真っ青だったんだぜ。そして、劉秀様が皇帝に即位した時は親衛隊長の「執金吾」に任命してもらった。
そもそも、劉秀様は若いころの夢として「仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」と言っていたのさ。陰麗華は当時の絶世の美女でのちの劉秀様のお后になられた。執金吾は若者たちの夢の職業だったのさ。親衛隊だから出で立ちも颯爽とカッコイイんだせ。名誉な事さ。
俺は負けた事はないんだけど、最前線で戦うからケガが多くてな。ある時の戦で死にかけたのさ。劉秀様は「惜しい奴を亡くした。賈復の奥さんは妊娠していると聞く。その子が女の子だったら我が息子の嫁にしよう。それがせめてもの償いだ」と言ったそうだ。
しかし、俺は生きのびて復活したのさ。あんまり俺が敵陣に深入りして危険を冒すため、劉秀様はあんまり俺を手元から離さなくなった。無謀な奴と思われたんだろうな。「お前の武勲は俺がちゃんと見ているから心配すんな」と言われたもんさ。ありがたいことだけど寂しいね。
陛下が俺を執金吾に任命したもの「コイツを戦いの最前線で戦わせると必ず早死にする。親衛隊長として目の届く場所において抑えなければならん」と考えたのかも知れないな。陛下に色々と気を使ってもらったおかげで俺は晩年は比較的穏やかに過ごす事ができたのだ。
膠東侯という地方領主に任じられて、その後は、第一線から退き、領地で静かに暮らしたのさ。』
〇耿弇
『私は耿弇と言います。父の耿況は上谷太守という役職で、私はその父の仕事を手伝いながら、兵法も学んでいたのです。
やがて私は父に従って劉秀様に仕える事になりました。当時は私も青二才。「御曹司のボンボン」と言われるのが嫌だったのです。だから、劉秀様の前でカマしたのです。 「劉秀様が苦戦なさった王郎の領地。私が全部落としてみせましょう!」と。
劉秀様は「若造が大きなことを言いやがって」とニヤリとしました。そして、私に任せると言ってくれたのです。私は燃えました。燃え上がりました。当時の私の部下の中には、「王郎こそが本物の皇帝としてふさわしいんじゃないんですか?」と言い、王郎の軍に加わろうとする者もいました。しかし、私は彼らを叱りつけ、こう言ったのです。「王郎の軍勢など、カラスの群れのように、ただ集まっているだけで、統制が取れていない集団だ!つまり「烏合の衆」にすぎない。私が長安へ行き、精鋭の軍を率いて戻ってくれば、簡単に打ち破ることができる。」
私は、この言葉通り、王郎の軍勢を打ち破りました。このエピソードから、「烏合の衆」という言葉は、まとまりのない、弱い集団を指す言葉として使われるようになったそうです。
そして、劉秀様が皇帝に即位すると、私は建威大将軍に任命して頂きました。この時、斉の地では張歩という男が反乱を起こし、勢力を拡大していました。皇帝となった劉秀様は、この反乱を鎮圧するために、私に討伐を命じました。
私は、斉の地へ向かうと、まずは敵の情報を徹底的に収集しました。そして、敵の隙を突き、電撃的な作戦を開始したのです。私は、敵の意表を突く奇襲攻撃を仕掛け、次々と勝利を重ねました。それだけではありません。兵站をしっかりと確保し、長期戦にも耐えられる態勢を整えました。こうした大胆かつ盤石の戦術が功を奏します。
私は、その勢いのまま、敵の本拠地へと迫り、ついに張歩を追い詰めます。張歩は、必死に抵抗しましたが、私の軍の猛攻により、ついに降伏しました。
こうして、私は斉全土を攻略しました。ほとんど私一人の手柄でした。武勲は甚大です。私は得意絶頂でした。しかし、私は気づいてしまったのです。私は数えきれないほどの命を奪ってしまった事に。
戦いに夢中なあまり、私はあまりにも多くの人を殺してしまったのです。落ち込みました。そして、戦い方も変えました。その後の私は、敵も味方もなるべく殺さぬような戦い方をするようになりました。そして、私は将軍職は30台前半で引退する事になります。それ以降は第一線を退いて、劉秀様から相談を受ける顧問となったのです。』




