第61回:前漢末期のおほほ
ミニコラムの続きです。
今回はわたくしが解説をしますわ。おほほ。前漢末期の中興の祖である宣帝がお亡くなりになると皇太子の劉奭様が皇帝になりましたわ。元帝と言われますわね。このお方こそ、私の夫でございます。おほほ。
私の夫は幼い頃から儒教を学び、穏やかで優しい性格に育ちましたの。でも、夫の父:宣帝は、劉奭様の優しい性格を心配し、「わが家を乱すのは太子ならんか」と嘆いたのですわ。「息子が甘ちゃんだから、わが家の未来が心配だなあ」って意味ですわ。おほほ。
でも、劉奭様は別に悪いことをしたワケではありませんわ。宣帝は劉奭様の性格を心配しつつも皇太子を辞めさせるほどの決心はなさいませんでしたの。おほほ。
そして、宣帝の死後、劉奭様が皇帝の座に就かれますの。夫は元帝様と呼ばれるのですわ。私の夫の元帝様は理想に燃えるお方。御父上の宣帝様は法家のお考えであらせました。しかし、元帝様は孔子が始めた儒教の教えを理想とされますの。ちなみに、儒教とは孔子様の教えによる政治学ですわ。
「むかしむかしの周の国では、周公旦という政治家が理想の政治を行った。だから、その時代をお手本に理想の政治を行おう」って考えですのよ。「君主や親を敬おう」「自分がイヤな事は人にもすんな」「他人へは思いやりを持って接しなさいよ。小さいミスは許すのが大事だよ」という考え方を大事にしたのです。元帝様も「やっぱりこの国には儒教がふさわしいよな」と考えたのですわ。おほほ。
だから、国の仕組みも変えようとされましたわ。「むだづかいしない」「飲み会はほどほどに」「狩りも別荘も節約志向で」「税金は減らす」という政策をなされましたわ。素晴らしいでしょ?おほほ。
でも、ちょっと理想が高すぎたかもしれませんわね。「専売制をやめる」つまり「国家が独占販売していた塩・酒・鉄を民間でも売っていいよ」という事を許しましたの。でも、そうするとあっという間に国のお金が減るわ減るわ。これは困りますわね。仕方なく「専売制はやっぱやめられないわ」と政策を転換してしまいました。
他にも「お金って生々しいからやめようかな」「物々交換に戻そうぜ」とむちゃを言ってしまったのです。その結果、経済を混乱させてしまいましたわ。夫に代わってお詫び申し上げます。
でも、夫は外交で優れた功績もあげましたわ。匈奴の王、呼韓邪単于との友好関係を深める事に成功しましたのよ。これには王昭君という人物が深く関与しますわ。王昭君は、我が夫の後宮にいた宮女でしたの。
王昭君は、美しいだけでなく、琴や書道にも秀でた才能あふれる女性でしたのよ。夫の元帝は、宮女たちの肖像画を見て寵愛する相手を選んでいましたわ。そして、宮女たちはこぞって画家に賄賂を贈り、自分を美しく描かせようとしましたの。でも、王昭君はそれをしませんでしたの。「私は知性にも美貌にも自信があるから、ワイロなんて汚い手段は不要だわ。」と思っていたそうですわ。
その結果、彼女は実際とは逆に醜く描かれてしまい、夫:元帝の目に留まることはありませんでした。その頃、匈奴の王、呼韓邪単于が漢との友好を深めるために訪問し、元帝に「私の妃になる女性を漢帝国から頂きたい」と求めたのですわ。
夫の元帝は、肖像画を見て「後宮の妃たちは、みんな美人だからどの女も手放すのは惜しいな。あれ、一人だけブスがいる。この妃なら渡しても惜しくないぞ」王昭君を選び、匈奴に嫁がせることを決めたのですわ。ひどい理由ですわね。
しかし、実際に王昭君を見た夫元帝は、その美しさにびっくりたまげて、後悔しました。しかし、すでに約束してしまった手前、引き返すことはできず、王昭君は匈奴へと旅立つことになりました。
でも、いきなり「異国に行って、その国の妃になりなさい」といわれた王昭君も可哀想ですわね。彼女が故郷を離れる際、琵琶を奏でながら悲しみを歌ったところ、その哀しい音色に雁が飛ぶのを忘れ、地上に落ちてきたという伝説が残っていますわ。
でも、匈奴に嫁いだ王昭君は、覚悟を決めて現地の文化に溶け込み、平和のために尽力したと言われていますの。王昭君は健気な女性だったのですね。でも、私が匈奴に行く事にならなくてホッとしましたわ。まあ、皇后でしたから当然ですけどね。
えっ?私がどうやって夫と出会ったかですか?私は元帝様の幼いときからのおつきの侍女でしたのよ。自分で言うのもなんですが、私は若い頃から美貌と教養に優れていましたの。おほほ。だから、「キレイなお姉さん」として、元帝様に気に入られて初めての夜のお相手になりましたわ。おほほ。
そうして、息子を産んだのです。息子は劉驁といいます。息子の劉驁は、のちには皇帝になりますのよ。おほほ。
皇太子を産んだから、私めは、なんと皇后さまになりましたのよ。嬉しかったわ~。でも、その頃には、元帝からお呼びも寵愛される事も無くなっていましたの。年上女だから仕方ないとは言え悲しかったわ~。
夫の愛は、側室の傅昭儀に移ってしまったのです。あの女が生んだ劉康を夫はとても気に入ってしまい、皇太子を変える検討までしましたの。私は焦りましたわ。
でも、私は賢い女。元帝様に対しては常に従順な態度でしたの。漢王朝歴代の皇后とは違いますの。ヒステリーなんか起こしませんわ。私は穏やかで控えめな性格がウリでしたのよ。いちいちキレるなんて愚かな女の行う事です。私はグッと我慢しましたわ。
そして、息子にも「父には従順な態度でいなさい」と注意しましたのよ。賢いでしょ私。
そして、努力が実を結んで、息子が皇太子を外されることはなかったですわ。こうして、元帝様の死後は息子が皇帝になって私が権力をゲットしましたのよ~。おほほ。
息子は成帝と呼ばれるようになりますわ。でも、息子の成帝は、政治にあまり関心がなかったんですの。だから、私が政治に関与するようになりました。そして、権力をゲットしましたの私。そして、権力を得たら、私の家族や親戚の王氏一族を次々と取り立てて高位に付けましたわ。今まで我慢してきたから当たり前の事です。
そういえば、私には一人不遇の弟がおりましたの。早死にして出世もできずに可哀想だったわ。だから、不憫な弟に代わってその息子の王莽を政府高官に取り立ててあげますのよ。
その後、私は成帝、哀帝、平帝の3代にわたって皇太后、太皇太后として権勢を誇りましたのよ。すごいでしょう?私は非常に温厚な性格で、周囲の人々から慕われていましたの。だから、いつまでも権威を保てましたのよ。
でも、私が取り立ててやったはずの甥の王莽がどんどん権力を得て調子に乗ってしまいましたの。挙句の果てには王莽は「俺が皇帝になっちゃおうかな?」と言い出したのです。私は怒りましたわ。
私は王莽の横暴に、激しく抵抗し、玉璽を投げつけたのですわ。ちなみに、玉璽とは皇帝の実印の事ですわ。これは国家の権力を象徴するものですのよ。だから、「王莽には玉璽はふさわしくない!」という抗議の意味がありますのよ。
その時、私はあんまり腹が立ったから「まさかこの私がこのような獣を生んだとは!」と叫んでしまいましたの。「わたくしのせいでとんでもないバケモノを生み出してしまいましたわ」って意味ですわね。結局、甥の王莽が我が漢王朝を滅ぼす事になってしまいました。罰当たりで悲しい話ですわ。せっかく素敵な人生だったのに、最後の最後で残念な終わり方をしてしまいました。
え?わたくしの名前ですか?人は私の事を王政君と呼びますわ。おほほ。