第05回:やりすぎですよ商王朝
ミニコラムの続きです。
湯王が建てた商王朝は、湯王の死後、嫡子であった大丁が2代目の王位を継承しました。
しかし、大丁は若くして亡くなります。その後は弟の外丙が3代目、さらにその弟の仲壬が4代目の王位を継承しました。
仲壬の死後、湯王の孫である太甲が5代目の王位を継承しました。しかし、太甲はまだ若く、政治経験も不足していました。
そこで、湯王の宰相であった伊尹が摂政となり、政治を補佐しました。伊尹は、湯王の時代から政治の中枢にいた人物であり、とても長生きだったのです。
太甲は、伊尹のサポートを受けながら成長し、やがて自ら政治を行うことができるようになりました。伊尹は、太甲に王位を返還し、再び宰相として太甲を補佐しました。
太甲は、伊尹の教えを守り、善政を行ったとされています。太甲の治世下で、商王朝は安定期に入り、国力も発展しました。
その後も、商王朝は、いくつかの王の交代を経て、徐々(じょじょ)にその勢力を拡大していきました。結局、商王朝は前の夏王朝同様、長期政権になりました。
商の首都は現在は殷墟と呼ばれています。なお、商王朝の人々(ひとびと)は迷信深く、先祖の霊とかをやたらと恐れました。ジャンル分けすると、オカルト系ですね。
そして、占いを信じて政治の事も占いで決めていました。オカルトが過ぎる国家だったのです。
占いの方法は、亀の甲羅とか動物の骨とかを焼く方法を使います。甲羅や骨が焼かれてピキっと割れた時のその紋様を占い師が判定したのです。なんとも奇妙な方法でした。
さらに、占いの結果も甲羅や骨に刻みました。この為、文字が誕生します。この文字を甲骨文字といいます。
占うのはいいんですけど、その結果がやたらと物騒でした。「今日は奴隷を何人殺して首を先祖に捧げたらよいか」とか言うことを占っていたそうです。やりすぎです。
それにしても、先祖の祟りはめちゃ恐がるのに、奴隷の命はとても軽く扱っている事が不思議ですね。
これは人間の定義が、現代とは異なっていた可能性が指摘されています。つまり「あなたの家族も、明日殺す奴隷も同じ人間なんだよ。大切にしなきゃ!」というと、「え?奴隷は人間じゃないでしょ?」と考えていたという事です。
つまり、商では異民族や戦争捕虜が奴隷の構成員だったのですが、自分達と同じという感覚はなかったと言うことです。
この為、商国の人は、実によく奴隷を殺しました。占いの気紛れで何人でも殺されます。これは奴隷にしてみたら恐怖でしかありません。
しかし、そんな奴隷でも殺されない奴隷がいました。「役に立つ奴隷」です。
当時の生活用品は、青銅器が使われていました。この青銅器を作るのは奴隷です。ある奴隷が、美しい青銅器を作ります。その作品は芸術的な域にまで到達していました。
そうすると「コイツは殺すの惜しいな。生かしておこう」と認められます。結果的に腕のいい職人は長生きできたそうです。
この為、商で作られた青銅器は異常な程に完成度が高く、芸術性が優れています。
空想上の獣であるトウテツをモチーフにする青銅器が多かったのですが、鬼気迫る迫力で作られた作品が、現代にも残されているそうです。
まさに職人の「死にたくないんだ!」という心の叫びが、作品を通して聞こえてきそうですね。