第44回:秦の瓦解
ミニコラムの続きです。
始皇帝死後、秦国は大混乱します。まず、始皇帝の遺体です。皇帝の死は簡単に公表できません。地方への巡行中に死んだので、国に帰るまで生きている事にされます。腐臭が漂いましたが。発酵した魚を並べて誤魔化します。
そして、後継者です。始皇帝は、一時期は遠ざけていた長男の扶蘇を後継者に指名しました。実は扶蘇は始皇帝に諫言して嫌われていました。しかし、庶民からは人気でした。扶蘇が、人格者だったからです。だから始皇帝は「俺には逆らったが、やはり賢い扶蘇を選べば間違いないだろう」と考えたのです。
しかし、この遺言を握り潰した人物がいました。宦官の趙高です。趙高は始皇帝に同行して死を看取りました。彼は、ずる賢い奴でした。始皇帝の巡行に同行していた始皇帝の末っ子の胡亥を利用する事を思いつきます。そして、遺言を「後継者は胡亥とする。そんでもって、扶蘇は死刑とする。」と書き換えます。
その頃、扶蘇は地方で国境を守る将軍蒙恬の元に送り込まれていました。「口うるさいヤツめ。反省して蒙恬の仕事っぷりを学んでおけ」という始皇帝の配慮でした。
その後、扶蘇の元に父の遺言が届きます。ニセの遺言です。しかし、扶蘇は「冷酷な父が言いそうなことだ。もはや俺に助かるすべはない」と絶望して自殺します。
その後、名将蒙恬にも、死刑が言い渡されます。蒙恬も「扶蘇様も死が命じられた。いまさら私に助かるすべはない」と、あきらめてしまいます。蒙恬も、不承不承ながら自殺しました。むろん、この命令書も趙高の陰謀です。
胡亥は趙高のお陰で二世皇帝となりました。しかし、胡亥は愚かであり趙高のいいなりでした。趙高は始皇帝の子ども達を胡亥を除いて全員処刑しました。始皇帝の子は男女合わせて20名を超えていました。成人している人物やまだ、幼い年少のものもいたのですが、全員お構いなしでした。さらに、臣下や親族も含めて関係者も殺したそうです。この為、処刑者は数万人に及んだそうです。
権力を手に入れた者がなんでもできる秦国の恐ろしさが如実になった出来事です。趙高はこのまま我が世の春を謳歌したかったのでしょう。しかし、後宮の中しか知らない趙高は民心の事を考えていませんでした。めちゃくちゃな政治が行われると各地で民衆の反乱が起きます。特に陳勝・呉広の乱は大規模でした。
この頃、人々は秦国の重税や過酷な労役に苦しんでいました。陳勝と呉広という二人の農民は秦国から労役の呼び出しを受けます。しかし、自然災害に邪魔されて集合の期限に間に合いませんでした。この場合、秦国の法律では死罪です。
他にも同じように期限に送れたなどの遅れたなどという下らない理由で死罪を言い渡された兵士がたくさんいました。陳勝・呉広は死なばもろともで、彼らを率いて反乱を起こしたのです。「王侯将相いずくんぞ種あらんや」というスローガンで貧民の力を結集します。「王も農民も同じ人間だ!」という意味です。
超高はその様な事は知らん顔でした。地方の反乱については、秦の最後の名将章邯が孤軍奮闘して鎮圧に奔走します。が、焼け石に水でした。始皇帝死後、始皇帝の右腕だった李斯は、趙高に主導権を握られた為すすべなく従っていました。しかし、ここぞとばかりに「このまま反乱を放置していてはダメだ」と諫言します。しかし、趙高は鬱陶しくなります。李斯にもテキトーな罪を被せて「腰斬の刑」で殺しました。腰斬とは、腰のあたりで体を真っ二つに切断する残酷な刑罰です。
政敵の居なくなった趙高は、しまいには家臣の自分への忠誠度を試すために、鹿を見て「これは馬だよな」といいます。「そうですね。」といった者は許し「なにをおっしゃる。これは鹿ですぞ?」といった者を殺しました。これが「馬鹿」の語源です。
その後も、趙高はどんどん自尊心が肥大します。最後には皇帝の胡亥を殺します。そして、自分が皇帝になろうとしました。ですが、誰も従わず趙高は殺されました。趙高は殺される直前には劉邦に内通を申し出ていたようです。しかし、劉邦は「お前みたいなヤツは殺す以外に興味はない」と相手にもされませんでした。本当の馬鹿は彼の事だったようです。趙高を誅殺したのは皇族の子嬰でした。子嬰は秦三代皇帝として盛り返しを図りますが叶いませんでした。劉邦の軍に降伏します。秦は建国わずかで滅亡の憂き目に会います。