ミニコラムの続きです。
夏王朝の末期に、桀という乱暴な王が現れます。
夏王朝は以前から女好きで、コスプレ好きの徳の無いダメ王が現れたりして信頼を失い落ちぶれていました。
さらに、桀王は王の座に就くと、民衆に対して思いやりではなく武力で従えようとします。これは嫌われます。
更に敵を討伐した際に末喜という美女を手に入れます。
そもそも、末喜は、有施氏という小国の娘として生まれました。その後、有施国は夏の桀王によって攻め滅ぼされ、末喜は桀王に献上されました。
桀王は絶世の美女だった末喜にすっかり溺れてしまいます。
桀王は、末喜を深く寵愛し、彼女の言うことは何でも聞きました。
末喜は、贅沢な生活を好み、桀王に様々(さまざま)な要求をしたと言われています。
桀王は、末喜のために、豪華な宮殿を建て、昼夜を問わず彼女と遊興に耽りました。
桀王は末喜をはべらせて遊んでばかりで政治がおろそかになったのです。
夏王朝の政治が乱れたので家臣や民衆はたいそう苦しみました。しかし、桀王はそんな事はお構いなしでした。
桀王にひどい目にあった人物のひとりに、湯という人物がいました。
彼は「こんなヒドい王になんか従えるか!」とキレます。
同志を集めて、桀王に戦いを挑みます。
湯王と桀王は、鳴条という場所で戦いました。
この戦いで、湯王の軍は、桀王の軍を打ち破ります。
桀王は、末喜とともに捕らえられ、夏王朝は滅亡しました。
そして、信頼を失った夏王朝に代わって、商という新しい王朝を建てました。首都の名前から殷王朝とも言います。
湯王は商王朝樹立の際に伊尹という人物の力を借りました。いわゆる軍師ですね。
伊尹の出自については諸説ありますが、有莘氏の出身で、元々(もともと)は農民であったという説が有力です。
伊尹は、有莘氏の娘が湯王の妃となった際に、料理人として殷に仕えることとなりました。
伊尹は初めは料理人でしたが、その後、若き日の湯王の付き人となります。
そこで政治の才能を認められ宰相の様な役割を果たすようになります。
さらに、伊尹は湯王の死後も活躍します。
湯王の死後、その孫である太甲が王位を継承しましたが、太甲は暴政を行い、国を乱しました。
伊尹は、王である太甲を桐宮という場所に追放し、3年間反省させたのです。
その後、太甲が改心したため、伊尹は再び彼を都に迎え入れ、王位に戻しました。
王にキツイお灸をすえる事ができたという事は伊尹が王よりも強い権力や実力を持っていたという事です。
この出来事は、後世に「伊尹放太甲」として語り継がれています。
伊尹は、百歳を超える長寿を全うし、商王朝の発展に尽力したと言われます。
彼の死後、商王朝では、彼を祀る儀式が行われ、その功績は後世まで語り継がれました。
伊尹は、卓越した政治手腕と高い見識を持ち合わせ、商王朝の基礎を築いた名宰相として、後世に高く評価されています。
また、伊尹は、教育者としての側面も注目されています。
太甲を追放したエピソードは、君主に対する諫言の重要性を示す教訓として語り継がれています。