第39回:王賁「親父が強すぎんだよ」
ミニコラムの続きです。
王賁は秦後期の名将です。頻陽県東郷、現在の陝西省渭南市富平県の出身です。
王賁は戦国七雄のうちの数国を滅ぼした武勲があります。土木工事や城攻めが得意でした。でもこの将軍、名前を聞いても「えっ?誰?」と言われます。しかし「秦の名将王翦の息子で父と共に活躍した」という言い方をすると「あぁ~!」と言われます。
実際の彼の実績は凄いのです。父親に勝るとも劣りません。彼に言わせると「俺がパッとしないからじゃなくて、親父が強すぎなんだよ」と言いたくなるでしょう。
例えば、燕に始皇帝暗殺犯である太子丹を討伐にいった時は父から総大将を引き継ぎます。王賁は、燕の首都薊に向けて進軍します。現在の北京ですね。
そして、王賁は燕軍の守りが手薄な場所を狙い、奇襲をかけました。燕軍は、秦軍の勢いに圧倒され、防戦一方だったのに奇襲まで喰らって大負けしました。
この結果、王賁軍は燕都の薊を陥落させ、燕王喜を遼東に敗走させる大戦果を挙げます。
王賁は落ち着く暇もなく翌年、楚にも侵攻します。この時の楚国討伐の主役は父王翦でした。
実は秦国は、前年に若手将軍だった李信と蒙恬に20万の兵で楚を討伐させたのです。しかし、大失敗しました。
この為、始皇帝は「今度は絶対失敗できぬな。宿将の王翦に60万人の大軍を率いさせて必ず勝とう」と考えます。
こうして、王賁は父王翦に従い、楚国討伐を行います。王翦と王賁の親子は隙の無い軍略で楚国に勝利して国を征服しました。
このように、王賁は若い頃から父の指揮を近くで見て学んでいたのです。さらに、オリジナルの軍略を見せた事もあります。
魏を攻めた時は、魏都の大梁に黄河の水を流し込んで勝利しました。レベルの高い水攻めを行ったのです。ちなみに、父親の王翦はこの戦いには、従軍していません。
「俺だって、やれば一人でもできるんじゃ~!」と叫びたかったでしょうね。
その後の、燕国討伐戦では、李信と共に燕を攻め、滅ぼしています。ちなみに、李信にとっては、楚討伐戦失敗の恥をそそぐ名誉挽回の戦いでもありました。
更に、斉国討伐戦では李信・蒙恬と共に斉を攻めてこちらも滅ぼしています。総大将は王賁でした。
すごい活躍です。この時点で王賁は、李信と蒙恬を上回る実績と評価を上げていた可能性が高いです。
ちなみに、始皇帝から王賁を見ると、新世代将軍の一員だった様です。逆に、旧世代将軍は白起、王翦、蒙驁、蒙武などが該当します。
一方、新世代の方は蒙恬、李信、王賁などが該当します。始皇帝と李斯には「歴戦の将軍は年老いて来たから世代交代を進めなければ」という課題もあったようです。
しかし、不思議な事に王賁は、ある時期からあんまり武勲をあげるような奮戦をしなくなりました。奇策を使って大勝利といったエピソードが無くなるのです。淡々と従軍して、大軍で弱小国を押しつぶしただけです。
王賁は武勲をたくさんあげてやる気を無くしたのか、精彩を欠いたのか不明です。しかし、父の王翦は始皇帝から粛清される事を非常に恐れた人物でした。
もしかしたら、息子の王賁には「お前は十分過ぎるほど武勲を挙げた。もうこれ以上活躍するな。上から警戒されてしまうぞ」と警告されて、あえて武勲を立てるのを控えたのかもしれません。
その結果、王翦と王賁の一族は始皇帝からの粛清を免れています。ただし、王賁本人は始皇帝即位の直前頃に亡くなります。父親の死後すぐに死んだのです。
なお、王賁には、王離という息子がいました。秦末の混乱期に、王離は章邯の指揮下で、秦に対する反乱軍の鎮圧に活躍しました。
しかし、王離は鉅鹿の戦いにおいて、趙を救援にきた楚の項羽に大敗を喫し、捕虜となりました。




