第36回:春申君は今が旬?
ミニコラムの続きです。
春申君は楚の人です。戦国四君のひとりですが、彼だけが皇族ではありません。楚において頃襄王に仕える臣下でした。姓は黄、諱は歇だと言われています。
ある時、秦への使者として春申君が向かいます。秦王に「お互い大国の我が国と秦とが争っても、他の弱小国が喜ぶだけですよ。和平しましょう」と交渉します。
そして、楚の公子の完を人質にする条件で秦も和平に同意しました。春申君も人質となった公子完の付き添いとして、秦に残ります。
その後、楚の襄王が病に倒れた時には、密かに公子完を楚に逃がしました。楚の王位を継がせるためです。
当然、秦王はキレて春申君を殺そうとしました。しかし、春申君の肝の据わった態度が評価され、楚から代わりの人質として公子完の弟を差し出す事で決着しました。
頃襄王の死後、春申君は後継者争いを制します。公子完は楚の王に即位して考烈王になります。命がけで王の就任に貢献した春申君はキングメーカーとして権威を獲得しました。春申君の名前はその時にもらったのです。
春申君は宰相の位を獲得します。そして、春申君は、現在の江蘇省蘇州の呉の故城に城を築き、食客三千人を養う身分になりました。彼の食客には性悪説で有名な荀子の姿もあったそうです。
その後、趙国が秦に攻められて絶体絶命になった時は、慌てふためいて平原君がやってきて「え、え、援軍を出して下さい~」と言って来ました。
実は、趙は、強大な秦の侵攻を食い止めることができず、長平の戦いで大敗北しました。さらに、首都邯鄲を包囲され、滅亡の危機にあったのです。
春申君は「趙の危機は楚の危機でもある」と考えます。この為、援軍要請に応じて兵を出します。春申君は、魏の信陵君とともに援軍を率いて趙を救援します。
楚と魏の援軍は、秦軍の背後を突き、秦軍を挟撃しました。苦戦した秦軍は、包囲を解き、撤退します。春申君は見事に勝利しました。春申君は軍事の才能もあったのです。この戦いは、「邯鄲の戦い」と呼ばれます。
その後、呉国の跡地に赴任して、小国の魯を滅ぼしました。順風満帆だった春申君ですが、秦の膨張は抑えられないレベルにまで及んでいました。
危機を感じた楚・趙・魏・韓・燕の連合軍を結成します。総大将は、春申君が選ばれました。函谷関の戦いが行われます。
しかし、連合軍は秦に敗れます。秦は、商鞅の変法によってただでさえ強い国力をさらに増強していたのです。
さらに、函谷関は、険しい地形と堅固な城壁によって守られており、難攻不落の要塞だったという事もあります。この敗北で春申君の権威は低下しました。
春申君は焦ります。慌てて楚の首都を寿春へと遷都しました。現在の安徽省淮南市に位置する場所です。
しかし、遷都しても、国力の回復にも、自己の権威回復にもつながりませんでした。春申君はますます焦ります。
そんな時、彼の食客に李園という人物がいました。彼の妹は絶世の美女でした。春申君はこの妹を妾妃として寵愛していました。彼女は春申君の子を妊娠します。
ここで李園が悪魔のような誘惑を囁きました。「わが妹の妊娠を秘密にして楚王に妹を献上するのです。そうすれば生まれる貴方の子を楚王にできるかも知れません」
春申君はこの誘いに乗ってしまいます。妹は皇后になり息子を出産します。李園も高位を得ました。
富貴を得ると、李園は計画が楚王に露見するのが恐ろしくなります。このため、春申君の命を狙うようになります。
春申君は食客から「李園に気をつけた方がいいですよ」と警告されるのですが「奴にはだいそれた事はできんよ」と相手にしませんでした。
ですが、春申君は李園の放った刺客に殺されてしまいます。その出来事は考烈王が病死した直後に起きます。
葬儀に向かう春申君は棘門という名前の城門に到着します。そこで待ち伏せていた李園の刺客に従者もろとも殺害されます。春申君は、城外にその首を捨てられてしまったのです。
さらに、春申君の一族郎党は皆殺しとなってしまいました。残念な最期でした。
ただし、李園の妹が産んだ子は、その後、即位し幽王となりました。だから、幽王の父は春申君だった可能性もあるのです。
李園は春申君を殺害して宰相となり、幼い幽王の代わりに楚の朝政を牛耳ったそうです。
しかし甥の幽王は即位10年ほどで若くして亡くなります。その後の政変で李園は妹の李太后共々殺害され、李園の一族は全滅しました。
因果応報ですね。




