ミニコラムの続きです。
王翦は、白起・廉頗・李牧と並ぶ戦国四大名将の一人です。キングダムとか史記とか読んでる人には説明の必要ない有名人でしょう。他の戦国七雄のライバル国を次々(つぎつぎ)と撃破して秦の天下統一に貢献しました。
若い頃から戦場で活躍していましたが、同僚の白起が朝廷の命令で殺されてからは、王翦の負担が重くなりました。なにせ、秦は「疑わしい将も、無能な将も不要」という方針だったからです。
戦国時代末期になると、秦軍で有力なのは王翦の一族と蒙武の一族ぐらいになりました。
実績ある名将でありながら既に高齢になっていた王翦は身の引き方を考えるようになります。幸い彼には有能な息子である王賁がいました。
王翦は息子の王賁を厳しく指導しました。これにより彼もまた有能な将軍として才能を開花させます。
王賁は戦国七雄の国々(くにぐに)を次々(つぎつぎ)と陥落させます。落とした首都の数は父よりも多かったそうです。父王翦も息子王賁もすごかったのです。
しかし、あんまり自分の一族に武勲が集中すると粛清の対象となります。よって、息子の王賁と共に燕国を滅亡させた段階で、始皇帝に引退を申し出ます。
次の時代の将軍として、王賁や蒙恬、李信などが育ってきており彼らに任せようと考えたのです。
しかし、大国楚との天下分け目の戦いで、総大将となった李信が調子に乗ってしまいます。
始皇帝に「楚を滅ぼす戦いに兵力はどれくらい必要だ?」と聞かれた際に李信は「20万もあれば十分ですぜ」と答えます。
王翦も同じことを聞かれ「60万は必要ですな」と答えました。盛りすぎなのは自覚していましたが、楚には項燕という名将がおり半端な兵力では逆撃されると考えたからです。
始皇帝は弱気な王翦の主張を退けて、威勢のいい李信を起用します。李信を総大将として楚の討伐軍を派遣したのです。
ちなみに副将は当時若くてイキがよかった蒙恬です。しかし、主将李信、副将蒙恬に率いられた20万の軍は大負けして帰ってきました。敵将の項燕が大活躍して、李信と蒙恬の軍を奇策にハメたのです。
結果的に王翦の慎重な意見が正しかった事になります。
始皇帝は焦って、引退を宣言していた王翦を呼び出します。「ワシの誤りだった。貴殿は正しかった」と王翦に大げさに謝りました。
そして王翦に60万の兵を与えて、楚への再侵攻を依頼しました。
王翦は始皇帝に言いました。「楚には行きますが、引退後には贅沢な生活がしたいです。子孫にも美田(きれいな田んぼ)を残したいです。だから、たっぷりのご褒美を下さい」と。
そして、王翦は楚に向かう途中でも何度も始皇帝に言います「褒美は間違いなくもらえますか?金額も満額ですかな?」と。
始皇帝は「王翦もずいぶんともうろくしたものだ」と苦笑します。
息子の王賁は父に尋ねます「父上はそこまで金にがめつくなかったはずですがどうしたのですか?」と。
王翦は息子に言います「わが皇帝は疑り深い人でな、60万の軍を率いたワシが逆撃して秦の皇位を実力で奪う事を警戒するはずじゃ。ワシが欲深いボケ老人だとわかれば、安心して粛清する気も起きないじゃろう?」
王翦は、敵よりも主君の始皇帝の疑心を恐れていたのです。白起のような悲惨な最後を迎えたくはありません。
この為、細心の注意を払っていたのです。
王翦は60万の兵を万全に運用して楚を討伐しました。
敵将項燕を倒して秦の最大の敵、楚を滅ぼしました。