中華の最初の王朝である夏王朝は治水の神、禹王を始祖としています。ですが、そもそも、考古学上は実在が確認されていません。よって、幻の王朝なのです。
歴史の授業でも夏王朝の詳細がテストに出る事はないはずです。しかし、司馬遷が書いた史記には夏王朝の存在が明記されています。現在の、中国の人たちも「夏王朝の存在はほぼ確定している」という認識を持っている人が多いようです。
一般的な説によると禹王は先王から禅譲されたとはいえ黄帝の子孫であり帝顓頊の孫です。よって、三皇五帝の血を引いて血統にも優れていました。
さらに、身を粉にして治水事業に粉骨砕身した事で人々(ひとびと)から尊敬されます。当時、ノアの箱舟伝説に登場した様な大洪水が中国の黄河でも起きていたそうです。人々(ひとびと)は洪水の恐ろしさに怯えていたのです。
禹王は自分の後継者には治水を引き継いでくれる人物にしようと考えていました。自分も王位を譲られたので自分も他人に譲ろうとしていたのです。いわゆる禅譲ですね。
最初に禹王は賢者とされる皋陶と考えていました。しかし、皋陶は禹王より先に亡くなってしまいます。禹王は他の候補を考えました。
その次の後継者として、禹王は治水工事で自分を補佐していた「益」という人物に後を託そうとしました。しかし、益は「私は工事屋です。技術の事はわかりますが、政治の事はわかりません。それに異民族なので王には不向きです」と拒否しました。
そこで、有力者たちは禹の息子である啓を次代の王に選びました。禹王は自分の子供に王位を譲るのは気が進みませんでした。しかし、啓に王位をゆずった方が丸く収まりそうだったのでやむなく後継者としました。
これにより、夏王朝の世襲が始まります。なお、啓は、父の禹王とは異なり、武力をもって国を治めました。もともと夏王朝は禹王の治水工事による徳で収まっていました。
しかし、啓は王となると周辺の部族との間で数々(かずかず)の戦いを繰り広げました。戦いに勝利する事で領土を拡大したのです。特に、啓はライバル部族の有扈氏との戦いで活躍します。
有扈氏は、夏王朝に服属しない部族であり、啓は自ら軍を率いて有扈氏を討伐しました。この戦いで、啓は見事勝利を収め、夏王朝の支配を確固たるものにしました。
啓の死後、夏王朝はしばらくの間、内紛が続きました。王位継承をめぐって、複数の王子が争いを繰り広げ、国は混乱しました。
最終的には、啓の孫の太康が三代目の王位を継ぎ、夏王朝は再び安定を取り戻しました。しかし、太康は君主としてはイマイチでした。
太康王は政治を顧みず、狩猟に明け暮れる日々(ひび)を送っていたと言われています。このため、民は困窮し、諸侯の不満が高まりました。
そんな中、東方のライバルだった有窮氏の君主である羿が「隙あり!」と考え夏王朝に侵攻しました。羿は、油断していた太康王の軍を打ち負かします。
そして「お前はなんてダメな王なんだ!俺が代わりに四代目の王になってやるから出ていけ!」と言って、彼を追放しました。太康王は南に逃れます。そして、失意のうちに亡くなります。
王位を奪った羿でしたが、彼自身もまた、臣下の寒浞という人物によって殺害されました。下剋上が繰り返されたのです。
寒浞は、元主君である羿の妻を娶り、その子を殺害するなどやりたい放題でした。寒浞の圧政に苦しむ民衆の間からは、夏王朝の復興を望む声が高まりました。
そんな中、太康王の曾孫にあたる少康という人物が登場します。彼は、優れた統率力で民衆の支持を得ます。そして、暴君の寒浞を討伐して、夏王朝を復興させました。
その後、少康王は、夏王朝の再興に尽力し、政治を安定させました。彼の功績は、後世にまで語り継がれ、夏王朝中興の祖として称えられています。
少康王の復興により、夏王朝は再び勢力を盛り返しました。しかし、その後も夏王朝は、度重なる内乱や外敵の侵攻に悩まされました。
こうして、夏王朝は衰退や中興を繰り返し470年ほど続いたそうです。世襲王朝の中ではかなりの長命王朝ですね。
しかし、王朝末期に、桀という乱暴な王が出現します。彼は力づくでみんなに言う事を聞かせようとしたので嫌われてしまいます。
ひどい目に遭わされた、湯という人物が桀王を倒して新しい王朝を作ります。これが商の国です。日本では首都の名前から殷と呼ばれる事もある王朝ですね。