第27回.キミは性善説?性悪説?
ミニコラムの続きです。
【性善説】孟子曰く「ワシの主張は性善説だ。人は生まれついたときはいいひとなんだよな。でも、大人になると悪い奴とか現れる。これは、正しい教育が行われてなかったからなんだ。ヒトは根っからのワルじゃない。だからほら、犯罪歴がたくさんある悪人だって、よちよち歩きの赤ちゃんが、井戸に落ちそうになったら、とっさに助けるだろ?「わっ!危ないっ!」てさ。
それに、ドナドナの歌を聞いて、子牛が売られる光景を思い浮かべると、悲しくなるだろ?ワルいヤツだってウルウルするだろ?「売られていく子ウシさんかわいそうだよね」ってさ。人は誰だって生まれ持った性根はいい奴なんだ。それを教育で正しく導かねばならんのだ。
だから、ワシが教えるんだ。教える相手はいろいろだ。しかし、特に重視して教えたいのは各国の王侯貴族だ!社会を良くするためにはエラいヤツへの教育が重要なんだ。受講費は安売りせんぞ、金はがっぽり頂くからな」とまあ、このような性善説を主張した孟子は、紀元前372年頃に現在の中国の山東省鄒の地で生まれました。
父親は早くに亡くなり、母親の手で育てられました。孟母三遷という故事が残っているように、孟子の母は教育熱心であり、孟子の成長を注意深く見守ったそうです。
成人後、孟子は諸国を遊説し、各国の君主に「人々(ひとびと)にやさしい政治」である、仁政の重要性を説きました。
しかし、当時の戦国時代は、各国が覇権を争い、武力による統一を目指す時代であり、孟子の理想とする仁政はなかなか受け入れられませんでした。
このため、孟子は、斉の国でしばらく仕えましたが、その政治姿勢が合わず、他の国を転々(てんてん)としました。
しかし、どこへ行っても孟子の理想とする政治は実現せず、晩年は故郷の鄒に戻り、弟子の教育に専念しました。
孟子は理想が高く自尊心も高かったようです。この為、身分の高い人物に教える時も卑屈になったりせず、シャレにならないくらい高額な授業料を要求する事もあったようです。がっちりしてますね。
【性悪説】荀子曰く「私の主張は性悪説です。人は、残念ながら生まれ持った性根は残念ながら悪なのです。
上の孟子さんは間違っています。だから、教育する事で善の心を植え付ける必要があるのです。ほら、人は放っておくと、すぐに怠けてしまうでしょう。だから、しっかりと正しい善の心を教えなければいけないのです。
ただし、教育だけでは足りないかも知れません。だから、ルールを作ってそれを守らせることが大事なんですね。
悪の性質を持って生まれる人間を正しい教育と正しい規則で正しい方向に導いていくことが重要なのです。
それに人間という奴は目上の人に対しての敬意をわかりやすく表現する事も苦手です。だから、『礼』という表現方法で目に見える形で表現しないといけないのです。
教育と規則と礼儀を使って社会秩序を維持する事で平和は世の中は実現するのです」とまあ、このような性悪説を主張した荀子は、紀元前313年頃に趙の国で生まれました。現在の山西省です。
つまり、孟子よりずっと後の時代の人なんです。荀子の本名は荀況だと言われています。
若い頃から学問を好み、大国斉の稷下学宮で学びました。稷下学宮は、諸子百家と呼ばれる様々(さまざま)な思想家が集まり、学問を論じた場所です。
荀子は、ここで様々(さまざま)な思想に触れ、自らの思想を形成していきました。
その後、楚の国に仕え、蘭陵の地の長官を務めました。現在の山東省あたりですね。
しかし、政治的な混乱の中で職を辞し、晩年は著述活動に専念しました。
なお、孟子の「性善説」は、その後の儒教の考え方のベースになりました。孟子は孔子の弟子でもあったのでこの二人の教えを「孔孟の教え」として儒学者は学びます。
つまり、この後の中国王朝の君臣の基本的な考えになりました。
荀子の「性悪説」は、その後、彼の弟子たちによって引き継がれます。
彼の弟子では、韓非・李斯が、特に有名です。この二人は法家と言われる存在になり、秦の国で、始皇帝の天下統一実現に多大な貢献をしました。
つまり、性悪説は中国統一王朝の実現に欠かせない思想となったのです。