ミニコラムの続きです。
中国の戦国時代、今の北京のあたりは「燕」と言ったそうです。現在の中国の首都でもありますし、三国志の頃は、劉備、関羽、張飛の桃園三兄弟の出身地でもあります。張飛は自分の名乗りを「燕人張飛、見参!」と言いますが。それは燕の出身だからです。
ところが、戦国時代では燕国はパッとしません。辺境のイメージが強く、春秋時代から各国をあっと言わせたような時期がなかったのです。
しかし、そんな燕にも、戦国時代中期にやっとこさ英雄が現れます。それが楽毅です。
当時の戦国時代は東の斉と西の秦との2強時代でした。燕は一度斉に滅亡寸前まで追い込まれていて弱小国でした。
燕の昭王は生き残りと斉への復讐の為、人材を求めていました。当時の燕では昭王が「どうしたらいい人材来るかな?」と悩んでいたら、郭隗という人物が、「まず、私にたっぷりの契約金を与えて下さい、私は自他ともに認める凡人、郭隗ごときがあんな大金もらえるなら、才能あるヤツはもっとがっぽり大金もらえるだろうと思って人材があつまりますよ」と言いました。実際にめちゃ志願者が集まったそうです。
この故事を「まず隗より始めよ」といいます。
各地を放浪していた楽毅は燕の昭王が人材を募集している事を知り仕官します。ちなみに楽毅は、元々(もともと)は中山国に仕えていましたが、趙に攻め滅ぼされたため、燕に亡命したと言われています。
仕官した楽毅は当時の斉が宋を滅ぼして調子に乗っている事に目をつけます。慢心してる斉王は武勲の多い孟嘗君を疎んじて斉から追い出します。
これをチャンスと考えた楽毅は韓・魏・趙・楚と共に連合軍を結成しました。超大国の斉は弱小国でも力を合わせれば侮れない勢力になるという発想を見破れませんでした。
楽毅は優れた戦術で、5カ国連合軍の総指揮を取り、斉を徹底的に打ち破りました。斉の首都を陥落させ、宝物を奪って燕へ送りました。
燕王は最高に喜びました。んで、斉の首都まで自ら赴き楽毅を労いました。そして、高い位を与えます。
楽毅はその後も破竹の勢いで斉の各地の城を落としまくります。怒涛の勢いです。もう、斉の各地では「楽毅来る!」のニュースが届くだけで皆逃げ回るほどでした。
楽毅は斉の都・臨淄を占領し、斉の湣王を、莒という地方に追い詰めました。残された莒で抵抗していたのは田単という将軍だけでした。
あと一息で斉が滅亡するという時に燕の昭王が死んでしまいます。息子の恵王が即位しますが、困った事に彼は楽毅が嫌いでした。
斉の田単が起死回生の策で燕王に陰謀を仕け、これが見事に的中します。「楽毅は斉の王位を狙ってまっせ」という流言を信じて楽毅の処罰を考えます。
楽毅はそれを察して趙国に亡命します。楽毅が居なくなって燕はすっかりダメになります。
反省した燕の恵王は楽毅に「ごめんよ。戻ってきてよ」と手紙を送ります。
しかし、楽毅は丁寧に返書しました。「戻っても、もう、お互いに気まずいだけですし、やめておきます。でも、先王の昭王は心から尊敬してますよ」という内容でした。
楽毅の離脱で、燕の一瞬のきらめきと栄光の時代は終わりました。