ミニコラムの続きです。
古代中国の兵法書で有名なのは「孫子の兵法書」です。それに匹敵する兵法家が戦国時代に登場します。それが呉起です。
呉起も「呉子の兵法書」を書き残しています。二人分合わせて「孫呉の兵法」と言われたりします。
呉起は激しい気性でした。若い時に仕官先探しに苦労し、その事を馬鹿にした奴を殺しました。物騒ですね。
その後、故郷を逃れ孔子の門弟である曾子に弟子入りします。しかし、その頃、呉起のお母さんが亡くなります。
呉起は故郷で人殺ししちゃってるのでノコノコ帰れる立場ではないのです。しかし、儒教の門弟としては大問題です。
「親不孝物め!」として破門されます。
その後、魏に亡命して名君の文侯と運命の出会いをします。
実は文侯は呉起を登用するにあたって、名臣の李克に相談しました。李克は「呉起は欲張りで女好きの俗物です。しかし、軍事的才能は過去の名将をも凌ぎます」と答えました。
それを聞いた文侯は呉起を将軍に抜擢しました。
呉起は性格は横暴でしたが、将軍としては実に繊細で部下想いでした。
兵士と同じ場所で寝起きを共にして、兵士と同じ食事をします。
兵士がケガすると自ら傷口の膿を吸い出して治療します。兵士達は感動します。
膿を吸ってもらった兵の母も泣きました。感動したのではありません。
「あの子の父も呉起将軍に心酔して命を捨てました。あの子も呉起将軍に命を捧げるでしょう。それが悲しいのです」という嘆きでした。
実際兵士達は「呉起将軍のためなら命など惜しまん!」という気概でした。
その結果、呉起軍はめちゃ強かったのです。
実戦では秦を討ち、5つの城を奪いました。
その後、名君の文侯が死に、子の武侯が即位します。
そこで呉起は「我こそ宰相に」と名乗りを挙げます。
しかし、田文と論戦して敗北し、宰相の座を譲りました。
田文は「呉起殿は軍略・政治力・威信全て私より上です。しかし、新しい主君はまだ頼りない。これにイラつかず寄り添えますかな?無理でしょ?我慢強さは私の方が上ですな」と言って呉起を説得したそうです。
その後、秦軍が50万の大軍で、魏に攻めてきますが、呉起は撃退に成功します。
武勲は比類ない呉起でしたが、その後の権力争いに敗れて、楚に亡命します。
楚でも能力を重宝され、楚の古臭い制度を改める事で富国強兵に努めました。
しかし、彼を信頼していた楚の悼王は老齢だったため、間もなく亡くなります。
既得権益のあった連中から恨まれていた呉起は政変で命を狙われます。
敵兵に囲まれ逃れられない事を悟ると呉起は、悼王の死体に覆いかぶさりました。
呉起と悼王の体に無数の矢が刺さります。
楚には「王の遺体を傷つけた者は死罪」というルールがありました。
かつて伍子胥が平王の死体に鞭打った為に追加された規則でした。
このため、呉起殺害の実行犯は「王の死体を弓矢で傷つけた」という理由で全員死罪となったそうです。
呉起は、死後、自分の殺害犯に復讐する事に成功したのですね。
呉起は、軍事面、政治面ともに優れた能力を発揮し、魏や楚の国力を高めました。
しかし、その強烈な改革は守旧派の反発を招き、悲劇的な最期を迎えました。
呉起の生涯は、その才能と悲劇的な死によって、後世に語り継がれています。