第02回:禹王は治水の神なのだ
三皇五帝の一人である「舜」は、優れた君主でした。
舜は「自分の子供よりも徳の高い人物を後継者にすべきだ」と考えます。その結果、実子ではなく頑張り屋さんな人に王位をゆずり(禅譲)ました。
これが禹王です。禹は治水工事に生涯を捧げた人物でした。
そもそも、禹は、父の代から治水工事に従事していました。しかし、禹の父は治水に失敗します。河川工事がうまくいかなかったのです。
禹は父の無念を受けて後を継ぎます。しかし、「父は堤防を強くする事にこだわり過ぎた、防いだ水は排水して逃がす事も重要ではないか?」と思いつきます。
自然の脅威に対して柔軟な対応を行おうとしたのです。この方法は成功します。そして、禹は次々(つぎつぎ)と黄河の補修を行いました。結果、洪水による水害は激減しました。
現在でも大雨による洪水の被害というものは恐ろしいものです。技術の進歩が不十分だった古代はもっともっと洪水は恐ろしい災害だったでしょう。この洪水被害を軽減した禹は人々(ひとびと)から尊敬されるようになります。
禹は、治水工事に打ち込みすぎて、たまに実家の前を通っても立ち寄りませんでした。家族の顔を見るよりも治水の仕事を優先したのです。
彼の手足は長い労働による酷使でボロボロになっていたそうです。明らかに働き過ぎの禹は、しまいには半身不随になってしまいます。
しかし、当時の君主だった舜は「頑張ってるヤツがいるな。ウチの息子よりああいう世のため、人のために働ける人物が君主にふさわしいよな」と考えます。そして、王位を禹に譲りました。禹王の誕生です。
舜と禹は禅譲により王位を継承した人物です。人々(ひとびと)は「じゃあ、これからもずっと王位は優れた人物にゆずられる(禅譲)されるのかな?」と思いました。
実際に禹王は自分の後継者には賢者とされる皋陶と考えていました。しかし、皋陶は禹王より先に亡くなってしまいます。
禹王は他の候補を考えました。しかし、なんやかんやで禹の息子の啓が王位を継ぐ事になってしまいました。結果的に、やむなく禹は自分の息子に王位を譲ったのです。
こうして、禹以降の君主は禹の子孫に引き継がれるようになりました。これを世襲制といいます。
つまり、中国で最初の世襲王朝になったのです。この王朝を夏王朝と言います。
これ以降の、中国の王朝も治水は最重要課題となります。「水を治める者は国を治める」という考え方が支配者にとっての使命になるのです。
ずっと後の時代、清の時代の乾隆帝は治水の神である禹王の功績を称え、巨大な玉石(翡翠)で禹が治水工事している時の姿を彫刻させました。これは、現在でも故宮博物院に保管されています。
巨大な翡翠の塊を使っていて迫力のある作品です。「水を治めた禹王はまさに聖王であった」と中国の人々(ひとびと)が認識しているエピソードです。
ちなみに王位を継いだ禹の息子の啓は武力に優れていました。父とは違って領土を拡大するために、周辺の部族との間で数々(かずかず)の戦いを繰り広げます。
特に、夏王朝のライバルだった、有扈氏との戦いは、啓の武勇を示す有名なエピソードです。有扈氏は、夏王朝に服属しない部族でした。啓は自ら軍を率いて有扈氏を討伐しました。この戦いで、啓は見事勝利を収め、夏王朝の支配を確固たるものにしました。