第18回:え?春秋五覇ってメンバ決まってないの?
ミニコラムの続きです。
そうなんです。題名の通り、春秋五覇ってメンバーは書物ごとに違っているんです。
①斉の桓公 ②晋の文公 ③楚の荘王の3名は春秋五覇としてよく名前があがります。実績も文句なしですからね。
しかし、それ以外のメンバーは色々なんです。以前のミニコラムで紹介した④呉王闔閭 ⑤越王勾践も候補に上がる事があります。
ただし、彼らに代わって④秦の穆公 ⑤宋の襄公が紹介される事もあるのです。
他にも候補者がいるのですが、もう、紹介しきれませんのでここでは割愛します。
ちなみに、④秦の穆公は、のちに天下を統一する秦国の9代目だった人です。
秦の穆公は、賢明で決断力のある君主として知られています。また、百里奚や、蹇叔などの有能な家臣を登用し、国政を整えました。
さらに、穆公は、晋献公の娘である穆姫を娶り、秦晋の好と呼ばれる関係を築きました。
また、ある時、秦の穆公はライバル国の晋の有力者に「君主になるのを手伝ってくれたら領土あげるよ」って約束をされました。
実際に秦の穆公は王位奪取の手助けをしました。しかし、晋王はこの約束を「ウソぴょ〜ん」と反故にしました。
秦の穆公は激おこぷんぷん丸のハズなのに、晋国が飢えたら「民に罪はないからな…」といって食料支援をするという優しさを見せました。
しかし、翌年今度は秦国が飢えると恩があるはずの晋王は食料送るのを渋るどころか「今がチャーンス!」と秦に攻め込んできたそうです。
さすがに「恩知らずにも程がある!」と穆公はブチ切れて晋軍を返り討ちにしました。
しかし、それでもこの時、晋王は殺されませんでした。
しかし、晋はその後も不誠実な態度を繰り返したため、兵を出して王を重耳に変えさせました。
その後、重耳は老齢ながらも活躍して、春秋五覇のひとりになります。
また、⑤宋の襄公は斉の桓公に続いて覇者になる事を目指します。
しかし、斉・楚と会盟した際、諸侯の盟主となることを楚に認められましたが、その会盟の席で楚により監禁され、盟主としての面目をつぶされました。
屈辱を晴らすべく泓水の戦いに臨みますが、敵が渡河してスキを見せている間に何故か攻撃せず「君子たるもの人が困っているときにそれに付け込んだりはしないものだ」といいます。
つまり、宋の襄公は信義や仁義を重んじる理想主義者であったようです。
しかし、家臣からは「戦場ではそんな理想論は通用しませんよ!」とツッコまれます。
しかし、時すでに遅し、戦いに敗れます。
その事があり、身の程知らずの情けのことを「宋襄の仁」という様になります。
理想主義もほどほどに…ですね。
このように、春秋五覇は、周王の権威が失墜した春秋時代において、それぞれの国を率いて中原の覇権を争いました。
彼らは、政治、経済、軍事など様々な面で改革を行い、国力を高めました。
また、周辺諸国との関係を重視し、外交手腕を発揮しました。
春秋五覇の活躍は、春秋時代の歴史を語る上で欠かせない要素でした。
春秋五覇に挙げられる君主たちの活躍で、小国だらけだった春秋時代の国々は統廃合が進みます。
特に、紀元前476年、大国だった晋が韓・魏・趙の三家に分裂するという大きな出来事がありました。
これ以降、春秋時代は終わり戦国時代へと移行していきます。