ミニコラムの続きです。
伍子胥は復讐の人です。彼は楚の国の重臣の家系に生まれました。祖父の伍挙は楚の荘王に「貴方は鳴かず飛ばずの鳥ではない」と謎掛けした人物です。
伍子胥は楚の後継者争いに巻き込まれ、父と兄を殺されます。そして、呉の国に逃げて復讐を誓います。
呉に亡命した伍子胥は、呉王光に仕え、その才能を発揮しました。呉王光の死後、闔閭が王位を継ぐと、伍子胥は引き続き闔閭に仕え、宰相に成り上がりました。伍子胥は、呉の国力を高めることに貢献したのです。
更に伍子胥は呉の地で、最強の味方を見出します。孫子の兵法書の著者である孫武です。「俺も実は一流の兵法家だ。そして、孫武は俺を超えるかも知れない兵法家だ。俺と孫武が組めばこの世で敵なしの軍を作れる」と考えます。彼は闔閭を説得して孫武を登用してもらいます。
更に、孫武とともに軍備を整えると、楚への派兵を行いました。準備は万全、率いるは当時最強の名将の伍子胥と孫武です。連戦連勝を繰り返し楚の首都を陥落させました。これが、柏挙の戦いです。
伍子胥は父と兄を殺した楚の平王に復讐したかったのですが、残念ながら平王は既に死んでいました。そこで伍子胥は平王の墓を暴き、死体を引きずり出して、死体にむち打ちました。その数、実に300回。
「やり過ぎでしょ!」と周りから言われますが、伍子胥は「私も年老いた、復讐を達成するには、他に手段が無いのだ」と嘆きました。伍子胥は激情の人だったのです。
その後、闔閭は越国の討伐を決めます。伍子胥は賛成し、孫武は反対しました。闔閭は越国に自ら攻め入ります。しかし、越には当時運悪く、范蠡という有能過ぎる軍師がいました。
闔閭は范蠡の策にハマり苦戦します。更に、闔閭は矢傷を受けてそれが元で亡くなります。亡くなる際に、後継者として次男の夫差を指名しました。夫差は「父上の仇は3年以内に撃つ」と誓いました。伍子胥はそれに応えます。
越は呉王を倒して調子に乗り、呉に攻め込んできました。これを迎撃して追い払うと、越に逆侵攻して追い詰めます。困った越王勾践は恥も外聞もかなぐり捨て、呉王夫差に命乞いします。
「私、勾践は、降伏します。越は呉の属国となります。私は夫差様の奴隷となります」と誓います。伍子胥は復讐者の執念を知っていますから「禍根になるから殺しなさい」と言います。しかし、ライバルを屈伏させて、ヘコヘコさせたことで、いい気になった夫差は許してしまいました。
しかし、この後、越王勾践は卑屈な態度を取りながら復讐の為の陰謀を張り巡らせます。呉王夫差には伍子胥への悪口を吹き込み、更に軍師范蠡と共謀して西施という、絶世の美女を夫差の身辺に送り込みます。
西施は、越国(現在の浙江省)出身の女性で、中国四大美女の一人として知られています。彼女の美貌は「魚も泳ぐのを忘れて沈むほど」と謳われたことから、「沈魚落雁」という言葉も生まれました。
また、西施が眉をしかめた姿が美しかったことから、周りの女性たちが皆、西施の真似をして眉をしかめたという故事もあります。この出来事から人のマネする事を「顰みに倣う」という言葉も生まれました。
夫差は絶世の美女である西施に溺れ、骨抜きになりました。更に、諌めた伍子胥とは険悪ムードになります。伍子胥は「ダメだこりゃ」と夫差を見限り、自分の子の将来を斉国の友人に託します。この行為が問題となり伍子胥は呉王より自殺を命じられました。
激情家の伍子胥は「この恩知ら(おんし)ずめ!命令通り死んでやる。俺の死体から目玉をくり抜いて、越方面の城門に掲げよ。呉の滅亡をこの目で見届け(みとど)てやる!」と言い放ち、自分の首を自分で刎ねました。しかしその願いは叶いませんでした。
夫差は伍子胥の遺言を聞いて激怒し、伍子胥の遺体を皮袋に入れて長江に流してしまったそうです。こうして、伍子胥の死後は呉の国は凋落していく事になります。