第110回:三国志英雄列伝⑱
ミニコラムの続きです。
◯羊祜
『私は羊叔子といいます。名家の生まれでボンボンでした。妻も名族の夏侯一族から迎えました。しかし、妻の父がなんやかんやで蜀に亡命して敵将になってしまいます。
あ、妻の父は夏侯覇という人です。妻はひどく落ち込んでしまいます。舅の夏侯覇が蜀に寝返ったので我が一族は白い目で見られるようになったからです。
しかし、私は妻を離縁する事もなく、優しく慰めたのです。私は人々から能力が高いと評判を頂いていました。だから、時の権力者である曹爽様に仕官のお誘いを受けました。ですが、断りました。私は権力闘争とかが嫌いなのです。
しかし、その後、司馬昭様から仕官の誘いを受けると流石に断れませんでした。私の姉は司馬師様の後妻に迎えられていました。だから、司馬一族とは親戚関係なのです。
以前、舅の夏侯覇殿の裏切りの罪を我が一族には及ばないように配慮して下さった恩もあったからです。私は司馬昭様にお仕えしたのですが、司馬昭様はやがて亡くなります。
そして、次代は司馬炎様の御代になり、司馬炎様は「呉を滅ぼして天下統一したい」と考えるようになります。私は荊州に赴任して呉を攻める計画を練ることになります。
しかし、大事なのは民草の支持を得る事です。このためには、慈愛の心で接する必要があります。民衆にも将兵にも。さらに、敵に対してもです。
こういう考え方で人と接していると、皆さまからめちゃ尊敬されるようになりました。
そんな時に陸抗殿が国境向かい側の敵として赴任してきます。陸抗殿は呉の名将だった陸遜殿の子息です。しかし、私は感嘆しました。「さすが名将の息子だけあって名将だ!」と思ったのです。
だから私は呉軍の敵とはいえ慈愛を持って接しました。呉から逃げてきた民は温かく迎える。敵将の首を斬ったら丁重に弔い送り返す。
そうしていると、敵軍も陸抗殿も私を尊敬して「羊公」と呼んでくれるようになりました。陸抗殿とは薬や酒を送りあい。遠慮せず飲める仲になっていたのです。
しかし、私は実は呉を滅ぼすプランをほぼ完成させていたのです。陸抗殿には悪いですが思い切って司馬炎様に上奏しました。しかし、「今はその時ではない」と却下されたのです。
どうやら重臣の賈充殿などの反対があったようです。「今が最大のチャンスなのに…人生はままならないな」と嘆いて私は亡くなります。後の事は下記の杜預殿と王濬殿に託す事にします』
◯杜預
『私は、杜元凱と申します。私の父の杜恕は、魏の官僚でした。しかし、父は司馬懿様と対立し、不幸な死を遂げました。
時代は移り、司馬炎様が皇帝となって晋を建国すると、私はその才能を高く評価され、重用されるようになりました。私は元々は、学者なのです。乗馬も騎射も全くできませんでした。個人的な武勇は皆無なのです。
その代わり、儒学には精通しておりました。春秋左氏伝にも自分なりの注釈を書き加える程の儒者だったのです。
私は羊祜殿が無くなると、後任として大将軍に任命されます。羊祜殿はもっと若手の後任を選ぶと思っていたのですが、同世代の私を選ぶなんて意外でした。
しかも、羊祜殿は緻密な呉の討伐作戦案を残してくれました。つまり、「私が長年温めてきた呉攻略の策、あれを必ずや実現させてほしい」という羊祜殿の遺志を託されたという事です。
これはもう「今すぐに呉を討伐せよ」と羊祜殿が言っているも同然です。皇帝の司馬炎様も乗り気でした。反対しているのは実力者の賈充殿です。であれば、賈充殿に従軍してもらい手柄を分け合えばいいのでは?と考えつきます。
私は根回しして賈充殿を総大将に祭り上げました。賈充殿は神輿ですから何もしなくていいのです。どうせ実際の戦闘指揮は私が行うのですから。
こうして呉の討伐軍の実質的な指揮官となった私はスピードを大事にした戦術を取ります。竹がスパッと縦に割れるように勢いをつけて進軍すれば敵も止めることができないのではないかと思ったのです。
この竹を割ったような進軍の事を「破竹の勢い」というようになりました。
私は武芸も苦手だし、水軍の指揮も苦手です。王濬殿が大船団を率いて荊州に到着するとこう伝えました。「作戦はこうじゃ。まず、わしが陸上から呉軍を攻め、王濬殿には、水上から呉軍を攻撃してもらう。そして、挟み撃ちにするんじゃ!大事なのはスピードじゃぞ!竹がスパッと縦に割れるよう、破竹の勢いで進軍してくれ!」と命じて大船団での呉の進軍を任せました。
呉軍は、王濬殿が率いる大船団を見ると「な、なんだ、あの巨大な船団は!?」とビビッて戦う事無く戦意を無くしてしまったのです。そして、呉は降伏します。大勝利でした。
この手柄は、ほぼ羊祜殿のモノなのにな…と悪い気もしました。でも、そういえば、羊祜殿は変わった性格でした。宮廷内では孤立していました。宮廷内に友人もいませんでした。
戦争前の根回しとか戦勝後の妬み対策とか言った寝技のできる人ではなかったのです。だから、最後には私がアンカーとして登場してよかったのかも知れませんね。』
◯王濬
『王士治と申します。私は幼い頃から勉学を熱心に行いました。しかし、品行方正とは言えない性格で故郷では評判がイマイチだったのです。
しかし、私は一念発起して、晋国に仕えることにします。司隸から招聘され河東従事になりました。つまり、首都圏のおエラ様からスカウトされて、地方都市の役所の職員になったのです。
さらに、運がいい事に、羊祜殿という尊敬できる上司に巡り合えました。そこから、私は一所懸命に働くようになります。そして、昇格して益州の太守に任命されます。
そこで実績を挙げていると、羊祜殿から「呉を滅ぼすには強い水軍が必要になるから鍛えておきなさい」と言われます。そして、水軍の提督になったのです。船を建造して大船団を整備して、水軍の兵を鍛えました。
そりゃもう夢中でした。大量の木材を使ったので蜀の木材は不足しました。さらに、造船時の木くずが河を下ってはるか荊州の呉の地まで流れ着いたそうです。
よく考えるとこの時点で呉の皇帝孫晧が何らかの対策をうっておくべきですよね。「むむ!長江の上流から、大規模な木くずが漂着しているのだと?それは我が国に大船団で攻め込む予兆ではないか!すぐに迎え撃つ水軍を整備せよ!」と命じておくべきだったのです。
そうしていれば呉は滅亡せずに済んだのにアホな皇帝ですよね。
大船団が完成すると蜀の首都だった成都から一気に下流の呉へ攻め下ります。ちょっと前の劉備や劉禅が皇帝だった時代は蜀と呉は同盟関係でした。それに蜀漢は万年金欠でした。
だから、大船団で呉を攻め落とすという発想はなかったようです。でも、実は蜀は長江の上流にあって、呉は下流にあります。だから、水路を使ってこのように攻め込むことが可能なのです。
かつて、諸葛亮も「わが蜀が本気を出せば、長江から攻め込む事もできるし、長江の水をせき止めて、そちらの呉を水没させることも容易いことじゃ。」と言って、呉を脅したとも言われていますね。
私は大船団を率いて蜀から下流の呉に攻め込みました。途中の城はあっという間に陥落させました。荊州に到着すると杜預殿の指揮下に入ります。そこで「スピードが大事だ。破竹の勢いだ。急げ!」と言われます。
その後、揚州に進軍すると、私は、王渾殿の指揮下に入ります。そこで「辛抱が大事だ。不動の姿勢だ。待て!」と言われます。私は内心「どっちやねん!」と思います。
しかし、杜預殿の意見の方がカッコよかったので破竹の勢いで進軍しました。「追い風が強くて船が止まりません」と下手な言い訳をしたのです。この勢いに呉軍はビビります。
皇帝の孫晧もビビります。孫晧はまともに戦いもせずに降伏しました。命懸けのつもりの呉討伐戦は意外とあっさりとした終幕を迎えました。』