第102回:三国志英雄列伝⑩
ミニコラムの続きです。
◯夏侯淵
『俺は、夏侯妙才だ。みんな知っているよな。俺は孟徳の親戚だ。
そして、孟徳の妻の妹を妻としていた。だから孟徳兄とは義兄弟の関係にもあったんだ。
ん?俺が悪役だと?それは昔の人形劇の影響じゃないか?俺はそんな悪人じゃないぞ。そもそも、俺のイメージが後世に間違って伝わっているよな。
俺は補給のスペシャリストだぞ。劉邦時代の蕭何みたいな存在だな。銀河英雄伝説ならキャゼルヌ先輩だな。
孟徳は一流の軍略家だ。だから、戦術よりも補給の方が遥かに重要だとわかっているからな。孟徳からは親族かつ補給の専門家として重宝されたのさ。
俺の補給能力の高さは「典軍校尉夏侯淵、三日で五百里、六日で千里」と言われて称賛されたものさ。
つまり、俺は、まるで今の宅配便みたいに、素早く軍需物資を届けることができたので、みんなに「すごい!」と言われたって事だな。
それだけじゃない、仁の心をもった仁将でもあったんだ。兗州・豫州が混乱し飢饉に陥った際、俺のは自分の幼子を捨てて、亡くなった弟の娘を救ったという逸話が『魏略』に残っている。だから、魏の人々に大変慕われたのさ。
だが、バトルでも、勇敢に戦ったんだぜ。潼関の戦いで、馬超・韓遂らが反乱を起こすと俺も討伐隊に参加した。俺は朱霊と共に、隃麋・汧などの少数民族の反乱を討伐したんだ。
潼関の戦い後も、俺は西方戦線に残り、馬超・韓遂らの残党勢力との戦いを続けたんだぜ。この時は「高平の屠各」と言われた遊牧民系の集団を攻撃し、敵を蹴散して食糧と牛馬を手に入れたんだ。
他にも枹罕の宋建ってヤツが「俺は王様だぜ!」とはふざけたことを言っていたんだ。なんと30年にもわたって、涼州の一角を勝手に支配していた。
俺は孟徳兄から、「ヤツを討伐してきてくれ」と命令された。そして、枹罕を包囲し、これを陥落させ、宋建とその一味を斬ったんだ。
異民族との戦いって、三国志演義にはイマイチ書かれないからな。俺の活躍は中々後世に伝わってないみたいだがな。
これらの戦いを通じて、俺は涼州の平定に大きく貢献し、その武勇を西方に轟かせた。
めちゃくちゃ出世もしたのさ。だから、曹操が魏王になったら宮殿でふんぞり返ってもいい立場だった。
でも、俺は現場主義で常在戦場だったのさ。兵と同じ目線に立ちたかったから、最前線にも臆さず立っていたんだぜ。孟徳からは「総大将が最前線に立つなど軽率だ」と怒られたな。
そんな俺は劉備が益州をゲットすると漢中の守備をする事になった。イケイケドンドンの劉備から漢中を取らないように俺自ら立ちはだかったのさ。「来るなら来やがれ!返り討ちにしてやるぞ!」っていう立場だった。
そして、定軍山で激突した。しかし、俺は黄忠とかいう元気すぎる爺さんに討ち取られてしまった。俺は総大将なのに突出して最前線に出過ぎたのさ、軽率だったぜ。
でもいいのさ、軍には張郃と郭淮がいる。だから、俺が死んでも絶対兵を立て直してくれると信じていたぜ。』
◯夏侯惇
『俺は夏侯元譲だ。孟徳は俺の従兄弟だ。若い時は孟徳の副将だったのさ。
たしかに俺は若い頃は血の気が多かった。14歳の時には、我が師を侮辱した人物を殺害した事もある。でも、将軍として勝ちまくっていたわけじゃないぞ。
むしろ、戦闘指揮は苦手だ。某ゲームの影響で俺は猛将に見られるがな。「武力90以上スゲー」とかな。後は、「目に刺さった弓矢を引き抜いて自分の目玉を喰った」という猛将まるだしエピソードもフィクションだからな。
俺は呂布との戦いでは、左目を失うという重傷を負ったが別に喰ったわけじゃない。でも負傷後も戦い続け、その勇猛さを天下に示したのは事実だ。
ちなみに俺は、無敗の猛将なんかじゃない。実際は将軍としては勝ったり負けたりだったぞ。呂布にも劉備にも負けたことがある。孟徳の親族でのバトル担当なら曹仁が激強だからそれでいいだろう。
そもそも、俺の魏での役目は「戦って武勲を立てる」事じゃないぞ。重要なのは「裏切らない事」だ。「孟徳の信頼」こそ重要なのだ。
例えば、孟徳が徐州へ遠征した時があった。この時、俺は自軍の本拠地である、兗州の中心地、濮陽を守備していた。
つまり、留守番役として本拠地の防御をしていた。これは、総大将が心から信頼をされている人物じゃないと任せられない役目だ。それに前の王朝の首都だった洛陽の長官をつとめた事もある。これらの重要な役目を果たしたのさ。
そして、俺は孟徳から絶対の信頼を得た。「不臣の礼」といってな。「夏侯惇だけは曹操様に臣下の例をとらなくていい」「曹操様の寝所に出入りしてもオッケー」という特別待遇を受けたのだ。
その後も、太守として重要地区の守りをしたりと地味な活躍をしたのだ。
ちなみに俺は勉強熱心だった。軍の遠征先でも家庭教師を招いて勉強したのだ。さらに、エラそうにするのは嫌いだった。お金が余ると人々に施したものさ。施しすぎて借金した事もある。金儲けには興味がなかったのさ。
だから、魏では猛将という面ではなく、人格者という面で人々に評価されたのだ。
孟徳と同世代だった俺は孟徳と同時期に亡くなった。孟徳のおかげとはいえ身に過ぎた人生だったな。』
◯曹仁『俺は曹子孝だ。孟徳殿の従兄弟だ。
若い頃は仲間を集めて暴れまわった。今で言うヤンキーの総長だな。乱世だったから許された事だな。
その後、孟徳軍に合流した。夏侯淵殿は補給担当、夏侯惇殿は副将担当、俺はバトル担当という役割になったんだ。
俺は、陶謙、呂布、張繡、袁紹などの群雄と戦った。ほぼ負けなしだった。
例えば、孟徳殿の父上が殺害される事件が起きた。犯人は陶謙の配下だった。張闓というヤツだ。これに激怒した孟徳殿は、陶謙軍への復讐を誓い、徐州への大規模な侵攻を開始した。この時、俺は別働隊を率いて各地で戦い勝利したのだ。
さらに、孟徳殿が呂布のせいでピンチになった事もあった。孟徳殿は、陶謙討伐のために徐州へ遠征していた。この隙をついて、呂布は陳宮の策を用いて、兗州に侵攻した。そして、我が軍の主要な拠点を奪ったのだ。俺は、残された拠点を守り、呂布軍の侵攻を防ぐ役割を担当したのだ。
また、官渡の戦いでは、袁紹軍の別働隊を撃破し、軍の勝利に貢献した。
赤壁の戦い後は、南下してきた呉の周瑜軍の猛攻を江陵で一年間に渡って食い止め、防衛戦を成功させた。
そしてこれらの戦歴を経るうちに、俺は何故か「守備のスペシャリスト」と扱われるようになる。
童貫の戦いでは馬超の猛攻を守り抜き撃退した。また、樊城の守将を命じられた事もある。樊城は、蜀漢との国境にある要地だ。
ある時、樊城に関羽が攻めてきた。ヤツの水計により全軍が壊滅しそうになった。しかし、俺は副将の満寵とともに城を守り抜いた。援軍の徐晃が駆けつけてくれて本当に助かったぞ。
守将として押しも押されもしない実績を得た俺は、大司馬という高い地位を頂いたのだ。
こうして俺は、孟徳殿の死後も魏の重鎮として活躍したのだ。その後、久しぶりに呉を相手に攻めの戦いを行う事になった。これは、濡須口の戦いと言う。相手の将軍は朱桓だ。
しかし、俺はそこで兵力の少ないはずの朱桓を攻めきれず撤退した。俺の戦歴での数少ない敗戦だった。悔しかったぞ。まあ、生涯不敗というワケにはいかないからな。俺は、この直後に亡くなってしまった。』