ミニコラムの続きです。
春秋時代から宗主国である周の権威が低下し、諸侯は勝手に主導権争いを始めます。最初に主導権を握ったのは、太公望を祖とする斉でした。
斉は恵まれた土地柄で、建国時から、強い力を持った国でした。ある時、斉に襄公という暴君がいました。襄公は異常な性格で、実妹と恋愛関係にありました。
妹は魯国の桓公に嫁ぎ、世継ぎを生みました。それでも兄の襄公は妹と関係を続けたそうです。当然、魯の桓公は妻の不貞に激怒します。
しかし、逆ギレした襄公と妹は共謀して魯の桓公を殺してしまうのです。その後も、襄公は気に入らない人間を次々(つぎつぎ)と殺したため斉国内は混乱しました。
襄公の横暴に我慢ができなくなった、皇族の公孫無知という人物が謀反を起こします。公孫無知は、襄公を殺す事には成功します。しかし、感情に任せて行動した公孫無知の行動は民衆からの支持を得られませんでした。
公孫無知はすぐに兵に殺されてしまいます。この結果、斉は君主不在になります。王位継承権を持つのは、国外にいた2名の公子でした。それぞれ、糾と小白と言います。どちらも、襄公の弟にあたります。
公子はどちらも国外に亡命していたので、早く国に帰り着いた方が有利でした。糾の軍師だった管仲は、糾を急行させると同時に、途中で小白の暗殺を目論みます。
管仲は国に向かう小白を見つけると毒矢で射ます。小白がドサっと倒れたのを見て、管仲は小白の死を確信します。
「我が主人、糾の勝利だ!」と考えたのです。しかし、小白は死んではいませんでした。毒矢はベルトのバックルに弾き返されていたのです。これはラッキーでした。なんか、マンガみたいな展開ですね。
小白は死んだふりのまま一計を案じます。棺桶に隠れて斉に急行したのです。ライバルを殺したと思っていた管仲と糾は悠々(ゆうゆう)と斉に入国します。
しかし、すでに小白は斉に到着して、権力を掌握していました。スゲえぜ、小白!これが斉の桓公の誕生の瞬間です。
管仲と糾はやむなく、魯国へ逃げます。そして、斉の桓公は禍根を断つため、魯国へ出兵します。魯国をコテンパンに痛めつけると、魯は降伏します。
公子糾は、やむなく斉に引き渡されて斬首されます。このとき、管仲も斉に引き渡されました。桓公は自分を射た管仲を殺そうとします。しかし、重臣の鮑叔がこれを諌めます。
「あなたが、斉の王だけで満足するなら、私達の補佐だけで十分です。しかし、天下の覇権を得たいならこの管仲を宰相としなければなりません!」と。
管仲と鮑叔は幼なじみで、以前から親友だったのです。鮑叔は幼いころから、管仲の才能を見抜き、常に彼を助けました。
管仲は後に「私を生みたるものは父母なれども、我を知るは鮑子なり」と語ったと言われています。この友情話を人々(ひとびと)は「管鮑の交わり」と言いました。
斉の桓公はこの進言を容れて、管仲を登用します。そして、宰相となった管仲は、様々(さまざま)な政策を実行し、斉の国を富ませました。
彼は、農業、商業、工業を奨励し、税制を改革し、軍隊を強化しました。さらに、周辺諸国との関係を改善し、斉の国際的な地位を高めました。
この結果、管仲達の補佐を得たことで、斉の桓公は実際に各諸侯のリーダーとして推戴されます。これを「覇者」と言います。
桓公は、春秋五覇の最初の覇者となったのです。桓公は管仲を「仲父」と呼び、深く信頼していました。管仲は桓公を補佐し、優れた政策を実行することで、斉の覇業を支えました。
なお、管仲は、多くの名言を残しています。その中でも有名なのは、「倉廩実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を識る」という言葉です。
この言葉は、「人は生活が安定して初めて礼節をわきまえることができる」という意味であり、もともと貧乏だった彼の思想を表しています。