第01回:三皇五帝
ミニコラムの始まりです。
すぎエモンと申します。皆様よろしくお願いします。ミニコラムを連鎖して、中国史を解説していきたいと思います。
まず初めは、三皇五帝からです。中国史の始まりは、この三皇五帝からと言われています。最初は三皇ですが、三皇は人間ではありません。伝説上の神のような存在です。だから、三皇を「歴史上の人物なのか?」と言われると違うかも知れません。歴史というより神話ですね。日本史もイザナギ・イザナミの国産みの神話から始まっています。歴史の始まりは神話なのです。
三皇はそもそも見た目から異形です。「人間の形をしていない」って事です。つまり、人間じゃなくて神様なんですね。
三皇とはどのような神かという議論にはいくつか説があります。三皇は「天皇、地皇、人皇」と言われる事もありますが、「女媧、神農、伏羲」という3柱の神だとも言われます。
女媧は人間の創造主で、下半身がヘビ、上半身が男女のつがいになった神です。神農は、医療と農業の神です。炎帝とも言われます。伏羲は女媧の夫とも兄とも一心同体の男神とも言われる存在です。
五帝はそれに比べると人間的な存在です。実は五帝は書物によってメンバーが違います。しかし、有名な史記に準じると、黄帝、顓頊、帝嚳、堯、舜の5人です。
初代の黄帝は中華文明の初代の君主であると言われています。黄帝は実在が確認されていない伝説の君主です。しかし、姓はハッキリしています。「公孫」が黄帝の姓と伝わっています。
三国志には「公孫瓚」という群雄がいます。「もしかしたら、公孫瓚は黄帝の子孫なのかな?」と思ってワクワクしたりしました。しかし、実際は「黄帝はすべての中華文明の君主の祖先である」という言い伝えになっているようです。
他にも「弓矢を発明したのも黄帝である」という伝承もあります。ちなみに、中華文明に伝わる五行思想では黄色は中央の重要な色です。まさに黄帝に相応しい色でした。中国の歴史においても代々(だいだい)黄色は特別な色でした。皇帝だけが黄色い服を着ることが許されてきたのです。
ちなみに、顓頊は黄帝の後任です。顓頊は黄帝の孫にあたる血統と言われます。顓頊は人々(ひとびと)が神と関わる事を嫌ったそうです。現在でいう所のオカルト嫌いの現実主義者ってやつですね。ちなみに孔子もオカルトが嫌いでした。古代の人はハンパなく迷信深かったのです。
そんな中で「神よりも人を大事にする」という方針だった顓頊は先見の明があった人物という事になります。
その次の帝嚳は嚳とも言われる君主です。帝嚳は黄帝の曾孫にあたるそうです。彼は聡明で徳が高い人物だったという伝承があります。ただ、帝嚳には「生まれながらにして自分の名を言うことができた」というエピソードがあります。これはちょっと大げさですね。
その次の堯は帝嚳の息子です。堯は暦を作り、一年を366日と決めたそうです。グレゴリオ暦と比較すると不正確ですが、当時に1年の日数を把握できていたというのは凄いことです。
また、堯は実子ではなく徳の高い後継者を後継者とする、禅譲という仕組みを作りました。堯は実施ではないが舜という人物が優れていたので君主の座を譲ったのです。
その次の舜は堯から禅譲を受け、親孝行で妻たちに対しても誠実でした。さらに、舜は政治家としても優れていたそうです。
舜は早くに母を亡くします。父が再婚すると、継母と連れ子から命を狙われます。「あんな奴よりアタシの息子の方が後継者にふさわしいわ。あんな奴殺してやる!」という理由です。理不尽な理由ですが舜は反撃せず耐えます。
継母から命を狙われたのにもかかわらず孝行を尽くしたのです。まさに聖人君主にふさわしい振る舞いです。
このように舜は忍耐強く自らを厳しく律する事ができる人格者だったようです。そして舜も善政の後、後継者には自分の子供以外を選定しました。
治水に優れた禹という人物に禅譲したのです。禹もまた優れた君主でした。非常に働き者だったそうです。しかし、禹は自分の後継者には、自分の息子に君主の座を譲りました。禅譲ではなかったのです。
その後は、禹の血統から君主である王が歴代選ばれるようになりました。いいか悪いかは別として禹からは血統による王朝が始まります。
こうして、三皇五帝から王朝の時代に遷移します。