プロローグ〜修羅場を添えて〜
興味を持って頂きありがとうございます。
楽しんで頂ければ幸いです。
縦長の窓からは夜空が覗き、星が瞬いている。雲の隙間から蒼白い月がほんのりと顔を出す。
人の背丈ほどある大きな燭台の上でいくつもの蝋燭の光がゆらゆらと揺れ、磨き上げられた床に反射して光の川を作り出していた。それを背景に一人の美しい男が平凡な女の前に跪いている。
「マリー、君じゃないと駄目なんだ。どうか私と共に人生を歩んでほしい」
真理衣を真っ直ぐに見つめるコバルトブルーの瞳には確かな熱が込められている。月の光を溶かし込んだ様な銀の髪はシャンデリアの光を受けキラキラと柔らかな光を纏っていた。
童話の中から出て来た王子みたいだなぁと真理衣はぼんやりと考え、目の前のコバルトブルーを見つめ返す。
宮殿の回廊にて突然始まった公開プロポーズに、偶然通りかかった高位貴族や神官、そして騎士たちは思わず立ち止まった。ある者は目を潤ませ高揚した表情を浮かべ、またある者は驚愕の表情を浮かべている。
見守る誰もが真理衣の返事を待っている様子であった。彼女はプロポーズを周りに見られている状況に羞恥心と苛立ちを感じていた。もちろんそんな感情ばかりでは無い。
既に逃げ場が無いのに、何重にも退路を絶ちたいらしい男の瞳に必死さがほんのりと滲んでいる。それを感じ取った真理衣の中に呆れと同時に愛おしさが込み上げた。
それが分かってしまう程、彼と真理衣の仲は親密な物となっていた。
男は真理衣が中々口を開かない事に焦っていた。まさかやり過ぎたせいで嫌われたのでは、と男は顔を強張らせていく。
「_____条件があります」
色んな事があったなぁ、と真理衣は過ぎし日々を思い返しながら跪く男に向け口を開いた。
*****
都内の産婦人科にて、加藤真理衣はフラフラと退院の手続きを行った。無事に出産を終えたものの夫である雄大は出張で出産に立ち会う事も出来ず、一人孤独に出産に挑み慣れない新生児の世話をする真理衣は精神的に辛い思いをしていた。入院中のたった数日で育児の大変さを知った彼女は早く夫に会いたいと願いながらため息をつく。
雲一つない青空の下、家へと向かう。
7月に入り、太陽は容赦なくジリジリとアスファルトを焼く。ジメジメとした鬱陶しい程の蒸し暑さは日本の夏ならではである。真理衣の首筋にもいくつもの汗が浮かんでは垂れる。入院の為に必要だったお泊まりセットが入ったバッグが重く、途中で放り捨ててしまいたいと彼女は眉間にシワを寄せた。
「クソ暑い…日傘用意しておくべきだったわ。でも両手塞がると危ないか。…はぁ…パパが帰ってくるのは明日だよ〜早く会いたいね。悠ちゃん」
真理衣は腕の中で眠る愛する我が子へ囁き、産まれて間もない娘の顔に日が当たらぬように、手のひらで日陰を作った。
家の前まで来た時に、真理衣は窓越しに寝室のカーテンが揺れたのに気づく。
「…ん?扇風機付いてるの?もしかして帰って来てる??」
明日まで出張予定だった夫が早く帰って来ている可能性に、真理衣は首を傾げた。まあ早く帰って来た事は喜ばしいと笑みを浮かべる。
しかしその笑顔は玄関を開けて靴を脱ごうとした瞬間に固まった。見知らぬ真っ赤なパンプスが目に入ったのだ。
「え…?」
心臓がドクドクと嫌な音を立てて、軋む様な痛みを感じる。いやまさか彼に限って、と真理衣は平常心を取り戻そうと深呼吸をする。
きっと義母か義姉が来ているのだ、彼女は家の中へと進んでいく。
「あんっ」
「………」
寝室から聞こえた女の声に、真理衣の息が止まる。もはや気のせいだとは思えず、彼女は勢いよく寝室のドアを開けた。バタンという大きな音が派手に鳴る。
「あ……え…真理衣…?」
「えっ!!うっそ〜!奥さん帰って来るの今日だったの?!さいあくぅ〜」
全く悪びれない様子の女の声と共に目に飛び込んできたのは、全裸の男女がベッドの上で絡み合っている姿だった。間違いなく自身の夫と知らない…いや、一度夫の会社の同僚として紹介された女性だった事に真理衣は気づいた。覚悟をして開けたドアだったが、頭は考える事を拒否するように真っ白くなってゆく。手からバッグが滑り落ち、重そうな音を立てる。雄大の表情は強張って、口からは意味のない言葉を発するだけだった。それを見た真理衣は口を開く。
「離婚しましょう」
やっと絞り出した声は、彼女自身が驚くほど冷たく、部屋に響いたのだった。
***
言い訳をして離婚を拒む雄大を押し切って、真理衣は離婚の手続きを行い慰謝料と親権をもぎ取った。
夫とは婚活マッチングアプリで出会い、この人ならパートナーとして上手くやっていけると思い結婚した。燃えるような激しい恋ではなかったが、そこには確かな信頼とそれなりの愛情があったはずだった。けれども、そんな感情も呆気なく消え去ってしまった。自身が非常に冷めやすい性格である事も彼女はよく理解している。特に裏切りに対しては人一番嫌悪しており、決して赦さず切り捨てる。
たった一度の浮気と言う人間も居るだろうが、一度浮気をした男は何度でもやる、と真理衣は知っている。結婚式で〈病める時も健やかなる時も互いを愛する事を誓うか〉という文言は人が守れないから敢えて神に誓いを立てるのだ。
実家へと身寄りを移した彼女はそれから1ヶ月ほど育児に追われ、1ヶ月健診を受けに病院へと向かった。この頃には手探りではあるものの育児に慣れつつあり、彼女の心も平穏を取り戻していた。
「4110gです。とても順調ですね。何か心配な事などはありますか?」
「えっと、粉ミルクの量なんですけど…今60から80あげてて1.2時間程で泣き始めちゃうんです。一応母乳もあげているのですが…」
「今の時期だと、もう100から120くらいは飲みますから、3時間程で起きてくる量を見極めて調整してみましょう。睡眠時間が取れていないと思いますが、ご家族の方と協力して頑張って下さいね」
「はい、ありがとうございます」
真理衣は医師に相談できた事に、ホッとしながら病院を後にした。
交差点で信号待ちをしている時に、腕の中で悠がモゾモゾと身じろぎするのを微笑みを浮かべて撫でていると、耳元で男の声が聞こえた。
『×××××××××××××××』
「…え??」
近くには誰もおらず、真理衣は薄気味悪さを感じその場から急いで離れようとした。
だが、足が動かない。まるで縫い付けられたかのように動かない足元から、青白い光が溢れて来る。
あり得ない現象から真理衣は悲鳴をあげ、偶然近くを通った女性に声を掛けようと手を伸ばした。
「あのっ!!!助け…」
最後まで言い終える事が出来ずに彼女の手は空を掴む。女性の身体を自身の手がすり抜けていったのだ。
「やだ、なに、これ?!」
真理衣が手を目の前にかざすと、交差点の向こう側が透けて見えた。あまりの恐怖に真理衣は我が子を強く抱きしめた。
読んで頂きありがとうございます。
不定期投稿ですが、これからも宜しくお願いいたします。