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少ししてから、ふう、と伊空王子が息を吐きだす。
私たちは身を固くして、この場で一番立場の偉い伊空王子の判断を黙って待った。
「ブラッドリー」
「……何でしょうか」
「この場では我の顔を立ててくれぬか」
伊空王子の言葉の真意を推し量るように、私とお兄様は地面を見つめたまま黙している。
ブラッドリー殿下もどう受け取るべきか迷っているのか、すぐには返事をされなかった。その隙間に、伊空王子が次の言葉をさし込んでいく。
「あの娘を抑えきれなかった事は、凍狼の間違いのない責だろう。しかし、そこにおる娘の行為により、お前は傷一つ負うておらん」
「……それは認めましょう。セッカ嬢のお陰、という部分は」
ブラッドリー殿下の言葉にはやや棘があった。私の行動は認められるが――雪菜の行動は認められない、という声色である。
(……ブラッドリー殿下は、運命の番に懐疑的なのだわ)
最初の出会いが悪かったとか、国益を考えて結ばれた婚約者がいるとか――そうした理由以上に、彼自身が番という獣人だけが知る事が出来る存在に対する疑念があるのだと、感じた。
おそらく、彼には「番なのだから許して欲しい」……なんて言葉の言い回しは、少しも響かない。なんの、意味もない。
伊空王子の言葉からして、王子は私たちを庇うような言動をしてくださったが……彼の言葉でブラッドリー殿下は納得してくださるのか。
伊空王子が次に発した言葉は、そんな不安を抱いた私の想像したものとは、随分違うものであった。
「それに、アリステラにとっても良い薬となるであろう」
「は……? それはどういう」
「今のを見て、お前も分かっただろう? 獣人は女であろうと、人間の男をしのぐ力を発揮する。そして時には先ほどのように本能に呑まれ、極めて危険な存在となる」
(……伊空王子は何の話をなさるつもりなの?)
この場でわざわざ、獣人の危険性をブラッドリー殿下に話す利点が分からず、困惑してしまう。
それはブラッドリー殿下も同じだったのだろう。困惑したような息遣いを、耳が拾う。
「――嗚呼、そのような顔をするな、ブラッドリー。当然であるが、アリステラには傷一つつけさせるつもりはない。王宮にいる、最上級の護衛を傍に控えさせる予定だ。安心すると良い。……とはいえ、守られる側が、周囲の危険性に無自覚過ぎては、守れるものも守れない。そうではないか?」
伊空王子の言葉に、ブラッドリー殿下は息をのんだ。
「アリステラは、会話は聞き取れていないが、遠目ながら、この場で起きた諍いを目撃している。故に、獣人の持つ凶暴性を伝えれば……自ら危険を招くような真似をする事はないだろう。そうしてくれれば、我々もより安全性を保ったまま、アリステラを守ってゆけるだろう。……此度の出来事は、アリステラにとって良い経験となる。しかも、アリステラ自身の身を危険にさらす事なく、獣人の力を体験できたのだ。偶然が生んだ出来事であったが、最悪の事態ではなかった。……そのように考えてもらえると、我もありがたく思うのであるが」
ローザスには獣人は、殆どいないという。国を横断するものはいても、定住は殆どしていない。だから、アリステラ殿下もブラッドリー殿下も、獣人の特色を知識では知っていても、実感は伴っていなかった。
今回の出来事はその、不足していた実感を補える出来事だったと……伊空王子は、そう言っているようであった。
「………………分かりました。今回の沙汰はすべて、貴方に任せましょう」
ブラッドリー殿下はその場から離れ、アリステラ殿下がいる方角へと歩いて行った。彼がそばから離れると、ブラッドリー殿下が私と雪勝お兄様に顔を上げるように言った。
顔を上げれば、伊空王子は小さく一つ頷いた。
「残りは侯爵らと話す。下がって良い」
「はっ」
「だがその前に。……凍狼雪花。アリステラの大事な兄を守った事、大儀である」
「……ありがたい、お言葉でございます」
「凍狼雪勝。お前の沙汰は正しいものであった」
「……ありがたきお言葉でございます」
伊空王子は背中の羽を揺らしながら、私たちの前から去っていった。
私はしばらくその場に座り込んだまま、呆然と、庭の草花に降りかかった血の跡を、見つめていた。