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どうして?
雪菜はお父様からの決定もあって、ブラッドリー殿下たちが出立するまでの間、閉じ込める事が決まったはず。厳重な警備で監禁されているはずだ。いくら身体能力に優れる獣人といえども、若い女性では太刀打ちできない者たちが控えているはずだ。
いや、それよりも……実際に目の前にいる雪菜に、違和感が出る。
(匂いが、ない……? だからあの子がこんなに近くに来たのに、私は気づかなかったの?)
「ァ…………ア…………」
雪菜は途切れ途切れの声を上げながら、動く屍のように一歩ずつ、近づいてくる。実の妹のハズなのに、得体のしれない化け物のように見せて、尻尾が膨らむ。
「雪菜ッ! 去りなさい。貴女はお父様から、部屋から出るなと命じられている筈よ!」
「つが、い、……わ……、……つが……」
「雪菜ッ!」
声を張り上げて威嚇するが、妹には私の声など届いていないのだろう。雪菜が被りを振る。いつも、「綺麗に梳いて貰ったのよ!」と自慢気に見せてくれていた髪の毛が、バサバサと音を立てた。大切にしていた髪の毛を、今の雪菜は意識もしていないとわかる。
うつろな目が、こちらを見る。けれどそこには、私は映っていない。映っているのは、私の隣にいるブラッドリー殿下ばかり。
だからなの? だから私の声が、届かないの?
「雪菜……!」
「つがい、つがいつがい番番番ィ――――!!!」
雪菜が叫ぶ。遠吠えのように、彼女の声が屋敷中に響き渡る。
かちゃ、という金属音がした。視線は向けなかったけれど、ブラッドリー殿下が腰から佩いている剣に手をかけた音だと分かった。
瞬間、私は勢いよく正面にいた妹の腹部に突進した。雪菜の視線が、ブラッドリー殿下にばかり向いていたのが、幸いした。
以前の時はブラッドリー殿下がその場にいなかったから、私の体についた僅かな匂いに反応したのだろう。今は、大本であるブラッドリー殿下がいた事で、横にいる私の事は最初から眼中になかったお陰で、雪菜はアウトドアを殆どしない私でも対応出来るほどに、油断だらけだった。
「ギャンッ!!」
飛びついた勢いのまま、いくばくかの距離を、地面を転がりながら移動していった。その動きが止まると雪菜はすぐに起き上がってブラッドリー殿下の方へ向かおうとしたが、私は絶対に離すものかと、しがみつく。
遠くで、危険を知らせる遠吠えが響いた。お兄様が発したものだ。
私一人がしがみついているのに、雪菜はブラッドリー殿下の元へ向かおうと必死に手を伸ばし、身をよじり、地面を這う。
「雪菜、お願い、雪菜っ、落ち着いて。しっかりして!」
私たちの聴力を思えばうるさすぎるほどの声でそう叫ぶが、雪菜には届いていないらしい。
ずり……。
ずり……。
もはや人語にはなっていない音を発しながら、動こうとする雪菜を、必死に押しとどめようと私が奮闘していると、お兄様が私たちを呼ぶ声が近くで聞こえた。
「雪花! 雪菜!」
こちらに駆けてくるお兄様が叫ぶ。
「雪花、離れなさい!」
お兄様の声に、私は雪菜を掴む手を離す。瞬間、雪菜は私の体を弾き飛ばすようにして起き上がった。しかし雪菜がブラッドリー殿下に向かって直進しそうになったその瞬間に、妹に対するものとしては容赦がない一発の拳が、雪菜の顔面に直撃した。
地面に倒れ伏す私の頭上を、雪菜の体が飛んでいく。そのまま勢いよく、庭の整えられた花壇の上に雪菜が落下する無情な音が、庭に響いた。
「ハァ、ハァ、ハァ」
急いで川を飛び越えてきたのだろう。お兄様は犬歯をむき出しにしながら、荒く呼吸をしていた。私は私で、上体だけ起こした体勢のまま、どうするのが正しいかもわからず硬直していた。
「――これは、どういう事だ?」
そんな私たちの元に、伊空王子の声が、冷たく響いたのだった。