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「……お恥ずかしながら、普段我が家の庭師は川を横断しているのです」
跳んで超えるにはやや川幅がある小川だが、水深は大してない。濡れる事を厭わないのであれば、普通に川の中を歩いて進む方が楽なぐらいだ、と以前庭師は言っていた。
なので、当家には残念ながら、川を渡るための準備が存在しない。
それを伝えると、ブラッドリー殿下は顔を歪めた。苛立ちを露わにされた姿にこちらとしては、申し訳なさから恐縮するしかない。
「では、ブラッドリー殿下。私が側を飛び超え、向こう側に渡り、アリステラ殿下の意に反する事を伊空王子が成そうとしている場合には、お止めいたします。それで如何でしょうか」
「貴方は飛び超えられるのか」
「一人でしたら、おそらく飛び超えられます。ですが、大変恐れ入りますが、ブラッドリー殿下を抱えて飛んでは対岸には届きません」
ブラッドリー殿下から抱えて飛んで欲しいと頼まれる気配があった為、お兄様は早口にそう付け加えた。
ブラッドリー殿下は数秒の間沈黙した後に、「頼む」と短く我々に言った。お兄様は頭を下げ、それから私の方に視線を向けてくる。
「少しだけ、この場を頼む。伊空王子もそれほど長く、あちらにいるつもりはないとは思うのだが……」
「分かりましたわ」
お兄様は私たちを横目に助走距離をとるために、かなり後ろに下がった。それから、勢いよく地面に足を突き、速度を増して駆けだす。
私たちが立っていた所を横切り、岸部で踏み切ると、庭に流れている川を大きく飛び超えた。
遅れて、風圧が私やブラッドリー殿下を襲い、服の裾が強くはためいた。
跳躍が足りず川に落下という問題も起こらず、お兄様は無事に伊空王子やアリステラ殿下たちがいる場に着地した。
向こうで伊空王子が文句を言ったが、お兄様が軽く言い返し、最終的にはお兄様がそばに控える事は了承された。
いくら王族とはいえ、ここは侯爵家の屋敷。そこで大きな問題は起こせないと思って下さったようだ。少し安堵する。
「伊空王子はお兄様がそばにいる事をお許しされたようでございますので、ご安心くださいませ」
「そうか」
ブラッドリー殿下はそう短くお答えになった後、ただただひたすらに、熱心といえるほどに、アリステラ殿下を見つめていた。
とても大切にしている妹殿下。伊空王子は見るからに彼女を溺愛しているけれど、それが必ずしも安心につながる訳ではないのだろう。
お兄様が川辺を飛び超えた時、ブラッドリー殿下の目には僅かに畏怖のようなものが宿っていた。その目を、私は何度も見た事がある。
私たち獣人にとっては当たり前の力。けれど、獣人ではない者たちにとっては、とてつもない脅威の力。それを目の当たりにして、本能的に恐怖した人間の目だ。
(例えば……私がとても非力な存在だとして。とても大切な妹が、自分たちでは簡単にはかなわない相手に嫁ぐ事になったとして……)
想い会えている間は良い。けれど、何かの拍子にすれ違い、強い者から飽きられ、見捨てられ、冷遇されたら?
自分がされるのならばともかく、それが自分の大切な人だったなら――。
「妹君に、襲われたと聞いた」
突然のブラッドリー殿下からの言葉に、私は耳を立てて、ほんの少し硬直してしまった。
(彼の耳に入っていないはずはない話題だわ。でも、今聞かれるとは――)
「怪我は、なかったとの事だが」
「はい。従者が私を庇いましたので。その従者も、そこまで酷い怪我ではありませんでした」
実際が重症だったとしても、表向きは軽症か、それより酷い程度にしか伝えられない。雪菜の醜聞になるかもしれないからだ。
「……私が見るに、貴女はその年にしては、一歩引いたものの考え方が出来るように思える」
「過大評価でございます。幼き頃より本を好み、少し年増のような考え方をしてしまうだけですわ」
私の言葉を聞いたブラッドリー殿下は瞬いて、それから私を真っすぐに見た。
「では、書物由来の知識がある貴女に問いたい。――獣人にとっての、番とは、なんだ?」