20
梅のその後が気になり医務室に移動した私の所に、雪勝お兄様が駆け込んでこられた。
「雪花。お父様が先ほど――」
「雪菜の件でしょう。聞いております」
医務室の中には梅に私に雪勝お兄様だけになる。牡丹先生の姿は私が戻ってきた時には既に無く、梅曰く、雪菜の診察に向かったという事だった。
お兄様はゆっくりと瞬いて、それから、梅に視線を向けた。
「怪我の具合は」
「……それなりに、ですが大丈夫です、ご当主様や雪勝様に切り裂かれた訳ではありませんからね」
冗談のつもりだったのだろうが、私にはうまく笑えなかった。
お父様も雪勝お兄様も、いざとなれば戦場に立つ身だ。それ故に常日頃から鍛えている。単純な腕力で見ても、私や雪菜より遥かに強い。もし梅を背後から襲ったのが、我を忘れたお兄様であったなら……梅はそれこそ命を落としていたかもしれない。
そして彼女が無事なのは、ひとえに彼女も私たちと同じ獣人だからに過ぎない。もし人間だったなら、死んでもおかしくないと思う。
雪勝お兄様は私の横に椅子を一つ移動してきて、声を低くしてあまり響かないようにしながら口を開いた。とても小さな声だけれど、オオカミの獣人であれば問題なく聞き取る事が出来る。
「雪菜は監禁措置になったと聞いた」
「はい」
「そんなっ」
雪勝お兄様の言葉に私は頷く。
そうすると、寝台に横になっていた梅が悲痛な声を上げて体を起こそうとした。勢いで起き上がろうとしたせいで痛みにうめく彼女を、私とお兄様で慌てて寝台に戻す。
「雪菜お嬢様……可哀想……そこまでしなければならないのですか……?」
一番雪菜を恨んでおかしくないはずの梅が、沈痛な面持ちで言うのだからおかしな話だと私は思ってしまった。普通は梅の立場の人が一番、雪菜の危険性を訴えるところである。
傷をつけられたとしても番のためだと聞けば仕方ないかと思ってしまうほど――番という存在が、獣人にとって特別な存在だと皆が認識しているという事だ。
その事を理解した時、私にはとても言葉にしがたい感情が胸に満ちた。
理解出来ない。意味が分からない。どうしてそう思うのだろう。――気味が悪い。
「……私は」
私はやはり、獣人として何かがおかしいのかもしれない。
雪菜の事は可哀想だと言う気持ちがない訳ではない。それも嘘ではない、筈だ。
だがやはり、番だから番だからと何もかもを許して曖昧にしようとしてしまう姿に違和感を感じもするのだ。肌の下を虫が這いずるような違和感がどうしても体の中に生まれる。
「どうかしたか、雪花」
私の漏れ出た独り言を聞き取った雪勝お兄様が心配げな目を向けてくる。
「……いいえ」
私がそう誤魔化せば雪勝お兄様はそれ以上は踏み込んではこなかった。代わりに、雪菜の起こした事件について、私が知っている事を知りたがったので、私は素直に答えた。
全てを聞き終えた雪勝お兄様は眉を寄せて難しい顔をしている。
「……お父様の判断は、妥当だな」
雪勝お兄様の個人的な結論に、少しだけホッとする。
獣人は番を中心に思考する――特に、既に番を得ている獣人はその傾向が強い。だから雪勝お兄様が雪菜が可哀想だと判断する可能性も皆無ではなかった。実際、お父様はそのような同情心から判断を下すのに時間をかけていたのだろう。
梅がそんな、と小さく呟きながら雪勝お兄様を見るが、雪勝お兄様は腕を組みながら言った。
「我々にとってはブラッドリー殿下は雪菜の番だ。だが国からすれば、王子殿下の番を護送してきた、番の実兄だからな。しかも、見ていた限りブラッドリー殿下と王女殿下は仲の良さそうな様子だった。あれは他人の前だから取り繕っているだけではないだろう。だとすれば余計にブラッドリー殿下に下手に手を出せば、凍狼と王家が敵対関係になる――という所まで、起こる可能性があるぞ」
そこまで言ってから、お兄様は遠いところを見ながら言った。
「空飛ぶ鳥とやり合うのはもう御免なんだ……」
…………お兄様。それはお兄様の極めて個人的な理由ではないですかね。