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「ブラッドリー殿下の御立場から考えて、雪菜を娶る事はとても難しい事と思います。既に何年も他の国の姫君と婚約関係にあるそうで…………その方との関係を白紙にして、雪菜と結婚するなんて事が、王子という御立場で許されるとは思えないのです。王子の側が望んだのならばともかく、今、望んでいるのは雪菜だけです」
「より良い条件を提示すれば、不可能ではない。我が領地はローザスから近しい」
「ローザスとアールストンの関係を強化するためにという政略性は、アリステラ王女殿下の婚姻で十二分に果たされています」
双方王族での結婚だ。しかも、政略的なものではなく、アリステラ殿下は運命の番。ローザスに何かあった時、アリステラ殿下が願いさえすれば夫となる我が国の王子殿下はその自慢の翼でローザスへと駆け付けるだろう。
「政治的な事を考えるなら、ブラッドリー殿下までアールストンと縁付く必要はありません。しかも、既におられる長年の婚約者を蹴落としてまでする必要は、もっとないと思います。したとしても……その……側室のような形でしか、娶る事はないと思えるのです」
部屋の空気が重くなる。
オオカミの獣人は一途だ。例え運命の番と出会えなかったとしても、結婚をするのなら浮気はしない。連れ合いが死ねば、その後は一生独身を貫く者が殆ど。
そんな我々にとっては、第二夫人という考えは好ましいものでは到底ない。
「それから……これは私一個人の邪推でしかありませんが、ローザスという国としての判断はともかくとして、ブラッドリー殿下ご自身は雪菜を娶るつもりもなければ、関わるつもりもない……そのように考えておられるように思います」
「そのような発言があったのか」
「いいえ。ブラッドリー殿下は雪菜には触れておりませんわ。アリステラ殿下とは違い、全くというほどに」
アリステラ殿下も、雪菜が謹慎か何かで部屋に閉じ込められている……罰を受けている事は知っていて、王族として、もっと軽い罰に変えて欲しいというのを非公式ながら伝えてきている。
だがブラッドリー殿下は雪菜に触れていない。本当に彼が雪菜に対して何も悪い感情を抱いていなければ、何かしらの言葉があってもおかしくないのに。
「アールストンの力を考えれば、雪菜はブラッドリー殿下の番だからと国王陛下らに申し上げて、雪菜をブラッドリー殿下の妻とする事は可能だと思います」
凍狼侯爵家はどちらかというと中央と距離を取っている貴族で、王族と懇意という訳ではない。
それでも運命の番だからと話を上げれば、耳を傾けて、その願いを叶えるほうに力を貸してくれると思う。
「でも」
番と会えば幸せになれる。誰もがそう思い、そう語り、そう信じている。雪菜は殊更、その傾向が強かった。
お父様とお母様を見ていたから……余計に、番ならば、相手がたとえ誰であろうとも愛し合い幸せになれると…………きっと思っていたと思うのだ。
――「お母様のように番に愛されて幸せな家庭を築きたいわ!」
無邪気にそう夢を語った妹の笑顔を思い出す。
結局のところ、第三者でしかない私が勝手な結論を決めつけるのは良くない。
それでもその夢は……難しいと、思ってしまった。
私は、自分の中でもうまくまとめ切れていない感情を口にする。
「私……私は、勝手に動いた事を叱った後は雪菜を許して良いと思っておりました。お兄様も初めて千風お義姉様を連れてこられた時は少し話が通じませんでしたが、少しすれば落ち着いていましたから、雪菜もそうなると思ったのです。……ですが…………でも…………でも、私、あの子がローザスに嫁いでも、幸せになれると、どうしても思えないのです」
目を閉じると、私に向かって憎悪をぶつけ、歯茎をむき出しにし、鋭くとがった爪をこちらに向ける雪菜の顔が浮かんでくる。……とてもではないが、忘れようと思っても、忘れる事は出来ない。
今回襲われたのは私だった。だからまだ良かった。
私を庇った梅も、護衛を務められるほどに鍛えている人だから反応できたし、体が強かったから治療後にあれほど会話できるほど余裕があった。だからまだ良かった。
それ以上の雪菜の暴走を許さず、騎士たちが取り押さえてくれた。だから良かった。
でもこれが全部、ローザスで起きた事だったなら?
私だって怖いと思った事が、アリステラ殿下や、他、王宮にいる女性の身に降りかかったら?
オオカミの爪を向けられて、鍛えてもいない普通の人間が無事でいられるとは思えないのだ。今だって、獣人の、成人男性の騎士たちが取り押さえてやっとという状況なのに。
お父様はそれから長く黙り込んで、ずっと考え込んでいるようだった。
お母様も最初以外に口を開く事は殆どなく、ただじっとお父様を見つめている。お父様の決定を待っているのだ。
何を選んでも、何かを取りこぼす。すべての人間に対して良い形で事を収めるなんて事は不可能で。……だから私たちは、意見はしても、最終的には当主であるお父様の意見を待ち、それに従うのだ。
「ブラッドリー殿下方が出立するまでの間、雪菜を部屋から出す事は禁じる。また、ブラッドリー殿下がアールストン国外に出るまで、雪菜には監視役を複数つけ、個人で行動させることを禁じる」
全員が静かにお父様に向かって頭を下げ、お父様の決定に了承する意を示した。
お父様の指示を伝えるために、執事が外へ行く。私はお母様に促されて、立ち上がり執務室を後にした。執務室から出る直前に、項垂れたお父様が呟いた声は、私の耳にはしっかりと届いていた。
「どうして雪菜がこんな可哀想な目に合わねばならないんだ……」
私も心の中で、深く同意した。