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忙しいお父様にすぐ会えるか不安があったのだが、牡丹先生の手紙……或いは何かしらの報告書? を手にしていたから、あっさりと通された。普段、仕事のない私的な時間以外でこれほど簡単にお父様に会わせてはもらえない。
「お父様。牡丹先生からのお手紙です」
巻いた紙をお父様の横にいる執事に渡せば、執事はさらりと紐をほどいて紙そのものに何かしらの細工がないかを調べて、お父様へと手渡した。それを受け取ったお父様は文面に視線を走らせて、それから形の良い眉を寄せた。そっと片手を眉間に持っていく様子から、あまり良い事ではなかったのは確かだろう。
「アガタを呼んでくれ。雪花、席について待つように」
「はい」
私はお父様の執務室の部屋の長椅子に腰かける。
それからしばらくして、お母様がいつもの通り厳重な護衛と共に現れた。そして私が腰かけている横に、腰を下ろす。
「お呼びになりましたか」
「ああ。……雪菜の件だ」
「雪花に襲い掛かった事は耳に届きましたわ。……出来る限り伏せようとした所で、ローザス側に教えない事は難しいでしょう、何度も申し上げておりましたが、少なくともローザスの御方々がここを去るまでの間は、雪菜をこの屋敷の外に連れて行った方が安全ですわ」
お母様がそこまで提案していたとは思わず私は少し驚いた。実の娘に対しては冷たすぎるとすら思う。お母様の顔は凪いでいて、よくも悪くも感情が分からない。お母様の言葉にお父様は牡丹先生が書いた手紙を見ながら曖昧に「うん、うん……」と返事をした。お母様はお父様の手の中にある紙にそこで初めて視線をやり、「そちらは?」と内容について尋ねる。お父様は少しの沈黙の後、息をつき、それから紙を机においた。
「牡丹からだ。詳しい診察は未だだが、雪菜の症状は状況からして番渇望症によるものだろうと」
番渇望症とは読んで字の如く、番と出会っている獣人が、自分の考えや感情と反して番から引き離された時に起こるものだ。
軽症のものから重症のものまで幅広く、軽症な渇望症なら私もよく見る。例えばお父様はどうしようもなく仕事で数日間お母様と離れていたりすると、帰宅した時にいの一番にお母様を呼び寄せて抱き寄せ、満足するまで離さない。あれも軽度の番渇望症だ。
甘えん坊と捉える事も出来るが、症状の現れ方は人それぞれで、寂しく思うだけならばいいが、体調を崩してしまったり我を忘れてしまう人もいる。
ただ、私の周りは……お父様も、お兄様も、お義姉様も、他の人も……寂しくなる人や少し体調を崩す人ばかりで、攻撃的になる人はいなかった。だからこそ私は何も考えず、雪菜の元に行ってしまったのだ。雪菜が番渇望症を発症してる可能性は高かったのに、その事に全く意識も向けずに。
「先生のお考えは?」
「………………少なくとも、監視を増やし、部屋から出してはならないだろうと。過去の例から見るに、場合によってはあの攻撃性が番本人に向く場合もあるからと」
「…………何てこと」
その呟きの声色に背中の毛の一本一本が、怯えたように総立ちになった。尾の根元が震え、反射的に、膝の上に置かれていた自分の腕に尾が巻き付いた。
私はそっと、横のお母様の顔を盗み見るように見上げた。お母様はよく持ち歩いている扇で口元を隠してもいない。表情はずっと変わらず、むしろ、凪いでいると言えるもので。
……でも聞き間違いな訳がない。
今聞こえたお母様の声は……冷たいとは、少し違う。失望とも、何か違う。もっと重い、何か、……そう、怒り、怒りに似た何かを感じる声だった。私に向かって放たれた言葉だった訳ではないのに、怯えの感情が出てくるほどに。
お父様もお母様の声は聞こえたのだろう。伏せ気味だった視線を上げて、お母様を見る。お母様はなんてことのないように、小さく首をかしげていた。今の言葉は幻聴だったと思いたくなるほど、いつもと変わらない。
「……雪花」
「っ、は、はい」
このタイミングで名前を呼ばれるとは思っていなかったため、少し動揺してしまった。
「牡丹が、お前の考えは判断する時に聞いておいてよいだろう、と記していた。この件についてどう考えている?」
牡丹先生、そんな事を書いていたのか。確かに、考えを伝えてみてという事は言っていたけれど。
お母様も、他の、今お父様の執務室にいる人々も、私を見ていた。それにほんの少し緊張しつつも、私は牡丹先生にぽつりぽつりとこぼした内容を、頭の中で構築しなおしながら伝える事にした。