15
「雪花お嬢様!」
「雪菜お嬢様!!」
私たちの名を呼ぶ声が聞こえる。雪菜を抑えていた数人の使用人たちを全て振り払い、雪菜が私に向かって走ってくるのを、まるで時間の流れが遅くなったように感じながら、私はただ見ていた。
雪菜が走ってくる。それはよくある光景だったが、この時はいつもと違った。
雪菜の目には、顔には、行動には、明確に私に対する敵意があった。
そして私に向かって伸びる雪菜の両手の指先は、普段綺麗に切りそろえられているにも関わらず、鋭く伸びていた……。
勢いよく、雪菜の片手が振り上げられる。
私は何もできず、ただ、妹に敵意を向けられた衝撃から立ち尽くしていた。
そんな私を、いつの間にこの場にいたのか、梅が、私と雪菜の間に立ちふさがるようにしながら、抱きしめた。
「あ」
ようやく口からもれたそんな小さな声は、何の意味もなさなかった。
降り降ろされた雪菜の指先は、梅の背中に直撃した。
そして次の瞬間、ぶわりと血の匂いが広がって、私を抱きしめる梅の顔が歪み、それから、彼女の背中から首にかけて、赤い小さな粒が高く飛んだ。
「きゃあああ!!」
私は背中から後ろに倒れこんだ。梅の片手は私の頭部に回っていて、私自身には殆ど衝撃らしい衝撃がなかった。梅は私の頭の下にある方の肘をつき、振り返る。雪菜は明らかに興奮し、冷静さを欠いた様子で、まだ私たちのすぐ傍に立っていた。
彼女の口が動き、何かを言っていると分かった。
「わたしの、わたくしの、つが、い、わたしの、ゆるさない、許さない許さない許さない!」
まともな文章にもなっていない、ただ怒りのままに吐き出された言葉に、身が竦む。ローザスの人々の遺体を見つけた時よりも、遥かに恐ろしかった。
「あの人はわたしのもの、あの人はわたしのつがいなの!! 奪うなんて許さない、ぜったいに、ぜったいにけしてやる……!」
何を言っているの。そう言いそうになって、ハッとする。私は自分の腕に鼻を押し付けた。
――さっきまで顔を合わせていた、アリステラ殿下とブラッドリー殿下の匂いが、かすかにした。
もしかしてこの匂いに充てられて、私が、ブラッドリー殿下といい関係になったと思い込んでいる? そう思考を動かしながら、私は雪菜に声をかけた。
「私がお会いしたのはアリステラ殿下よ! ブラッドリー殿下とはただほんの少し会話をしただけで!」
「ぶらっどりー……あぁ、ブラッドリー! 私の……番……」
「落ち着いて雪菜、深呼吸をして、冷静になって……」
「……して、…………どうして、私が会えないの、どうして、どうしてぇッ!!! 番なのにィィイイ!」
――これはもう、ヒトではない。ケモノだ。
私の妹が、人に強請るのが上手くて、少し我が儘で、でも可愛らしい私の妹が、どんどん、どんどん、私の知っている姿からかけ離れていく。
「かえしてよ、おねえさま、私のブラッドリー様を、返してぇえぇええええ!!」
梅が私を庇うべく、強く体を抱きしめてきた。彼女の背中越しに、私はケモノと化した妹を見つめていた。
雪菜の手が再び梅を襲うよりも、騒ぎ声で駆け付けた我が家に仕えている騎士たちの方が動きが早かった。雪菜よりも俊敏に彼女の体を抑えにかかった二人の騎士たちは、奇声絶叫を上げて暴れる雪菜を抑え込んでいる。
「雪花お嬢様をお運びしろ!」
騎士たちの声に、梅は私の体を抱きしめたまま、勢いよく抱き上げた。床に寝ていたのが天井近くまで視点が上がり体の中が振り回されたような心地がした。
「う、め、うめ、うめ……」
「大丈夫です雪花お嬢様。ここは危ないですから、少し離れましょう」
梅は顔に汗を浮かべながらも、ただそう微笑んでいた。
私は両目からあふれる涙を止める事も出来ないまま、梅によってどんどん雪菜から遠ざけられていった。
遠くてずっと、雪菜の声が響いている。
雪菜の叫びが、嘆きが、怒りが、ずっと……ずっと耳の奥で、響き続けていた。