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お父様たちの私室から離れて、私はぼんやりと自室までの道のりを歩いていた。今後何をどうしたらよいか……という事が何も浮かんでこない。外を走っている途中で異変を感じた時は、次はこうした方が良いのではないか、それともこうした方が良いだろうかと色々思いついていたのに。
雪菜の元に行こうかとも思ったが、お父様たちから、後ほど雪菜の元に行くからそれまで関わらないでおくようにとも言われてしまった。ならば部屋か書庫にでも行けば良い訳だが、屋敷の中は空気そのものがざわついている。耳も鼻も良いために、屋敷のどこの部屋で治療が行われているのか等も想像がついた。ただ治療の場に行っても、大した知識を持たない私では何の力にもならないし、むしろいるだけでも邪魔だろう。どうしたものだろうかとノロノロと歩く私の耳に、聞きなれた足音が近づいてきた。
「雪花」
「……雪勝お兄様」
私の兄であり、凍狼侯爵家の後継者。私たちと同じオオカミの獣人で、やはり同じ光が当たると時々銀に見える、白い髪をしている。下ろすと鎖骨にかかる位の長さの髪の毛を、緩くくくって後ろに流している。
お兄様は私の顔をしっかりと見ると、とたんに眉尻を垂れ下げた。
「大変だったそうだな。大丈夫か?」
「……はい、私は大丈夫です」
兄の心配に、そっと笑顔を浮かべる。
疲れたところが無いとは言わないけれど、実際、私の身に及んだ被害というものは特にない。お兄様はそうかとひと息ついてから、片手に持っていたらしい手紙を差し出してきた。手に物を持たれている事までは意識が向かなかったので、差し出されて初めてそれに意識を向けた。既に封は切られている。なんの手紙だとすぐに理解できずにいた私に、お兄様が笑顔を浮かべながら言った。
「例の件についてだ。これを読めば少しは元気が出るだろう? 嗚呼、封を切ったのは俺じゃなくて、母様だから」
その言葉に、手紙がなんであるかやっと理解できた。
瞬間、先ほどまで起こっていた様々な問題が私の脳内から一気に消え失せ、期待と不安が心の奥から噴出してくる。けれど期待の方が遥かに大きい。兄の反応が、そちらの結果であった事を予感させたからだ。
この手紙を受け取るまで、私がどれだけの時間を費やしてきたか……。
お兄様の手から手紙を受け取り、中身を取り出せば、印刷されたのだろう文字が目に入った。
――凍狼雪花様。
此度は厳正な審査の結果、貴殿のプラリウス王立学園へ入学する事を認める。
最初に目に入ったその二文を、私は何度も何度も繰り返し見つめた。
「お、お兄様、これ……」
「合格おめでとう、雪花! 秋から留学だ。これから準備で忙しくなるぞ」
私はその場で飛び上がった。気が付けば口から、普段出した事のないような歓声が上げていた。すぐそばでその声を聴いてしまった兄は頭の上にある耳を必死に両手で押さえていたが、押さえるのが少し遅かったようで跳ね続ける私を見ながら眉間に皺を寄せていた。
「せ、雪花、少し声が……」
「合格! 合格! 合格だわ!」
プラリウス王立学園。
衣食住を確保し続けるため、自分で出来る事を考え勉強を続けるうちに行きたいと思うようになった教育機関だ。
アールストンにも学問を深める機関はあるけれど、比較的若い年代の人間が集まって学ぶ、大々的な教育機関はない。貴族の子供は、己の家、或いは親戚の家に子供だけ行かせて家庭教師に勉強を見てもらう事が一般的だ。学問を深めるような場所はだいたいは国や大きな貴族が個人で運営している研究施設という扱いで、所属するのも専門に勉強した大人だ。
平民以下であれば同世代の子供を集めて文字や算術を教える小さな教育機関もあるけれど、あくまで私的にやっているものばかり。
そんな中で私が他国にあるプラリウス王立学園に興味を持ったのは、主に二つの理由から。
一つ目がアールストン内部でもプラリウス王立学園は知られるぐらい、世界中で広く知られる名門校であること。
二つ目が、我が家で家庭教師をしていたうちの一人が、プラリウス王立学園出身だった事だ。
プラリウス王立学園はアールストンとローザス、双方と面した国土を持つクライストリーという国にある。ここは古くから魔法が盛んな魔法国家で魔法大国とも呼称される。周辺国同様に王侯貴族という特権階級があるものの、周辺国に比べても実力が重要視されていて、特に仕事においてはどれだけ家系が良くとも、能力が無ければ認められない。一時的に家系・親族などの力で良いポジションを得られても、実力が無ければそくクビにされてしまうと家庭教師は笑っていた。実力主義の負の側面もあるとは言っていたけれど、より多くを学びたいのならばプラリウス王立学園以上の場所はないとも。
その言葉を聞いて以降、私はプラリウス王立学園に留学することを目指し、学んできた。隣国に長期間留まる事になるので、両親にも多大な協力を得て試験に挑んだ。そしてその結果が、これだ。
「わ、分かった分かった! 落ち着け! 今屋敷にはお客様もいるんだぞ!」
「ハッ、そ、そうだったわ」
完全に頭からお客様方の事が飛んでいた。もう私の脳はプラリウス王立学園一色で、次の秋から始まるだろう新しい生活に思考が飛んでしまっていた。
淑女らしからぬ大声を出した事も遅れて恥ずかしくなってきて、私は自分の尻尾を抱え込んだ。いつも侍女たちが丁寧に手入れをしてくれているお陰でふわふわで、抱え込めば顔が隠せるのだ。力なくへにょと頭上で耳が垂れながら、私は兄に背中を押されてそそくさと自室に速足で向かったのだった。
次回から雪花視点ではなく、ちょっと視点が変わります。第三者視点で別の人サイドの話になります。