わたしが確認すべきこと。
「今日の晩御飯。カレーなんだ」
中学生になる娘が言った。少し不機嫌そうな顔。どうやらカレーという献立が気に入らないらしい。
理由としては「食べ過ぎる」「匂いが残る」そんなとこだろう。
仕方がない。作っている人間の苦労や手間など想像すらしないお年頃だ。
ママのカレーが大好きと言ってくれた娘はもういない。
「俺も最近は胃にもたれるんだよね。カレー」
娘の意見に便乗するように娘の横に座る男がそう言った。家族構成で言うところの夫だ。
何気ない言葉と悪気のない笑顔。本人はその言葉に傷つく人間がいるなんて思いもしていないだろう。
自分が聖人だとは思っていないが、人畜無害で平和な人間だと思っている。
それに、その笑顔はわたしに向けられたものではない。今一番大切にしているであろう女。つまり娘に向けられたものだ。
夫が最後にわたしに笑顔を見せてくれたのはいつだっただろう。
そして、
いつからだろう。夫がわたしの髪型の変化に気づかなくなったのは。
いつからだろう。夫がわたしの爪の色の変化に気づかなくなったのは。
いつからだろう。夫がわたしの体調の変化に気づかなくなったのは。
つまり、
いつからだろう。夫がわたしへの興味を失ったのは。
今では夫の視線のほとんどは娘が独占している。
もちろんそこにわたしが入る隙間はない。
わたしの作る料理なら何でも美味いと言ってくれた優しい彼。
どんな時でもわたしを優先し、わたしのことを一番に考えてくれた彼。
たとえ会社の同僚と何かを食べて来たとしても、苦しそうな顔を見せずに美味しそうにカレーを頬張ってくれた彼。
そんな彼も、わたしの前から姿を消した。
今の夫は、あの頃の彼ではない。
恋人が夫になっただけ?
いや、違う。
わたしは結婚しても恋人のままだった。そうであろうと努力した。
娘を産み、母になったとしてもそれは変わらなかった。
母であり、妻であり、恋人でもあろうと努力した。
だが、夫はわたしに母としての役割しか与えてくれなかった。
優しかった彼と、目の前の夫は、生物学的には同じ種ではあるのだろうが、どこかで変異を遂げているはずだ。
「パパ、おじさんみたい」
「みたいじゃなくて、もうおじさんだよ」
夫は娘の前では良い顔を見せる。
その優しい眼は、昔のわたしに見せてくれた視線とよく似ている。
わたしだけに見せてくれた表情。わたしだけの優しさ。
もうそれは、わたしだけのものではない。いや、わたしのものではない。
「そんなことないよう」
男の優しい視線を浴びて娘は満足そうだ。
娘を育てる母としては喜ぶべきこと。自分にそう言い聞かせてみる。
だってそうだろう。
目の前の父娘の会話は、世間一般から見れば仲睦まじい親子の会話だ。
だが、わたしの中で何かが引っ掛かる。
わたしは負けたのだ。
雄の持つ遺伝子獲得レース。
夫の遺伝子は、より若く、より魅力的な土壌を選んだということだろう。
結局二人ともカレーは食べてくれた。
なんだかんだ言っても夫も娘もカレーが大好きだし、わたしはカレーが得意なのだ。
次の朝。朝食に残ったカレーを勧めてみたが、夫も娘も食べてはくれなかった。
「朝からカレーの匂いをさせて学校になんか行けないよ」
「ワイシャツにカレーが付いたら大変だから」
ふたりが出ていった後、わたしはひとりで残ったカレーを食べた。
それでもまだ、鍋の中にはカレーが残っている。
「生ごみ処理機」
鏡に写った自分に向かってそう呟いてみた。
若いころに比べて一回り、いや二回りは大きくなった下半身がそれを証明している。
家族が食べ残したもの。家族が食べなかったもの。賞味期限が迫った菓子。
すべてはわたしの胃の中で処理されてきた。
自分でも思う。なんて優秀な機械だろうと。
ゴミとして捨てれば食品ロスと言われる時代。でも、わたしが吸収すれば食品ロスではない。
ただ、太った身体を見て、わたしの心が痛むだけだ。
最初から作る量を減らせばいい話だと人は言う。
しかし、彼らは気まぐれなのだ。
皿の半分しか食べない日もあれば、2皿目をおかわりすることだってある。
そして、食べたいときに食べられなかった日には、二人の機嫌が少し悪くなる。
それに、わたしだって、おかわりという言葉が大好きなのだ。
自分が作ったご飯をおかわりしてくれる幸せったらない。
このことだけはちゃんと言っておかなければならない。
わたしがご飯を作らされているのではない。
わたしがご飯を作ってあげているのだ。
だからわたしは今日も残ったカレーを処理する。
それが「生ごみ処理機」の役割だからだ。
その日の昼。ようやくカレーを食べきった。
カレーがこびりついた鍋を洗い、今晩は軽いものを作ろうと考えていたとき、スマホにメールが届いていた。
『今夜はクリームシチューが食べたい』
娘からだった。
クリームシチューは娘の好物なのだ。
もしかしたら2皿は食べるかもしれない。
わたしは少し嬉しくなった。なんて単純な女だろうと自分でも思う。
どのくらいの量を作ろうか考えて下を向いたとき、わたしの視界に下腹が見えた。
もっこりと膨らんだ醜い下腹。カレーを食べ続けたせいか、普段よりもせり出しているように感じる。
何故だか分からないが、わたしはセーターをたくし上げ、その肉塊を指で掴んでみようと決めた。
きちんと確かめないといけない。現実を受け入れなければいけない。
急にそんな思いにとらわれた。
恐る恐る、親指と人差し指を肉塊に添えてみる。
だが、2本の指では到底掴めそうにない。敵は強大だ。
思い切って5本の指を使って鷲掴みにしてみた。
手のひらに伝わるずっしりとした感触。これが、ぜい肉というやつなのか。
「はは、ははは……」
知らず知らずのうちに口から笑い声が漏れた。
なにが恋人としても努力しただ。
この腹のどこに恋人の要素がある?
こんな女が母だけでなく恋人としても求められようとするなんて、厚かましいにも程がある。
ひとしきり笑ったあと、足元に視線を落とすと床が濡れていた。
頬に手をやると、涙が手についた。
わたしは、笑いながら泣いていたのだった。
生ごみ処理機にもこんな感情があるのだと驚いた。
わたしはまだ、女だった。
「こんな生ごみ処理機でも、興味を持ってくれる人なんているのかしら」
家族の誰からも女として見てはもらえない。
それが母というものならそうなんだろう。
でも、夫はときおり男としての一面を見せるし、娘も女としての一面をこれでもかとばかりに見せつけてくれる。
なら、わたしだって女の部分があってもいいはずだ。これはそんなに我儘なことだろうか。
「貴方は魅力的ですよ」
土曜日の昼下がり。
レストランで向かい合った男がわたしの顔をまっすぐに見て言った。
「お世辞でも嬉しいわ」
「とんでもない。本心から言ってますよ」
「こんな体型のおばさんでも?」
「貴方はおばさんじゃないし、体型だって若い女に負けてませんよ」
年下の男が熱っぽくわたしにそう言った。
どこにでもいる普通の男。出会い系に登録したら、一番最初にメールをくれた。
正直誰でもよかった。いや、逆に良い男なんてお断りだった。
普通の、どこにでもいる、家庭を持っている男がよかった。
できるだけ夫と同じ境遇の男。
そんな普通の男から見た、今のわたしの価値が知りたかった。
「まさかこんな綺麗な人だとは思ってもみなかった」
どこまで本心かは分からない。
必死でわたしを口説こうとしているだけかもしれない。わたしの身体を味わいたいばかりの嘘かもしれない。
若いころのわたしはそんな男の下心を嫌悪していた。女とみれば見境なく覆いかぶさろうとする男を軽蔑していた。
下心を綺麗に包んで、ロマンティックに開けてみせる男に惹かれていた。
どんなに優しい男でも、女を抱きたい気持ちに変わりはないのにだ。
そのことに気づいたのは、ずいぶんあとのこと。
なのに、今のわたしにはその下心が妙に心地いい。
隠すことなく、身体を求めてくる男の熱情が気持ちいい。
目の前の雄に身体を求められているという実感。その満たされる思いが徐々に高揚感に変わっていく。
そして、その高揚感が、わたしにこんな台詞を言わせる。
「こんなおばさんでも抱けるの?」
昔のわたしなら絶対に言わないような台詞。
自分自身でもびっくりするくらいすんなりと口に出せた。これがおばさんでなくてなんなんだろう。
世の中のおじさんおばさんは自分の身体に価値を見出していないのだ。だから平気で安売りできる。いや、安売りどころか金をつけて貰ってほしいくらいだ。
とくに、わたしの身体なんてカップラーメン一杯分ほどの価値もない。本気でそう思っている。だって夫がそうなのだ。
なんなら、わたしの身体よりも睡眠をとるくらいだ。
「もちろん」
彼からそういう反応が返ってくるのは分かっていた。
いくらおばさんでも、それくらいの男心は読み取れるし、男の顔が欲情していることだって分かる。
それに、自分の身体に自信がないことは事実だが、男が欲情しないほど醜いとも思っていない。
それから1時間後。
わたしは初めて浮気をした。
「素敵でした」
すべてが終わったあとで、彼はわたしにこう言った。
それはそうだろう。
夫にもしたことがないような真似を、いや、誰にもやったことがないような真似までして、わたしは彼に喜んでもらおうとしたのだから。
「そう。よかった」
愛する人に抱かれる充足感。
それとは違う感情がわたしを包んでいる。
不思議と罪悪感はない。
流行っている不倫ものの漫画には、必ずと言っていいほどクズな夫が登場する。
それは絶対に必要なアイテムだからだ。
読んでる主婦が罪悪感を覚えるようなことがあってはならない。
浮気しても許される環境。それを読者に示すことで、読者は安心して浮気の疑似体験に没頭できる。
でも、わたしは違う。
たしかに夫はわたしを女として見てくれはしない。
だが、家を守る妻として愛してくれるし、尊重もしてくれる。
家事だって手伝ってくれるし、財布だって任せてくれていっさいの文句も言わない。
子供を育てるビジネスパートナーとして考えれば、夫はとても優秀なのだ。
こんな夫がいて不倫を考えるのは、漫画の世界では悪女と相場は決まっている。
今のわたしを包んでいるのは、まだ自分の身体にも価値があったという安堵感。
そんなものが欲しくて、わたしは夫を裏切り、この普通の男に身を任せたのだ。
「また会えますか?」
ホテルを出て彼はそう言った。
「もう会いません」
わたしはそう言って彼とは反対方向に歩きだした。
小心者のわたしは何度も後ろを振り返りながら、彼がわたしのあとをつけていないかちゃんと確かめて、そうして電車を乗り継ぎ、タクシーで見知らぬ土地を走り、普段の3倍はかけて家に帰った。
「ごめん。もうお腹いっぱい」
夫がそう言ってカレーを食べ終えた。
2皿も食べてくれたのだ。当然だろう。
「いいのよ。ありがとう」
わたしはそう言って鍋に残ったカレーを見た。
残しておけば、明日のわたしの昼飯になる。
だが、もうそんな真似はしたくないし、する必要もないと感じた。
夫にとっては何も変わらないだろうが、わたしはわたしの変化を感じていた。
もう生ごみ処理機じゃない。誰かにとっては価値のあるわたし。
そう思うと、自然と笑みがこぼれていた。
身体の中がきゅっと熱くなるのを感じた。
もうあんな真似はするまい。
彼には悪かったけど、あれは単なる試験だったのだ。
合格したわたしにはもう必要はない。
女としての試験に合格した今のわたしには、彼はもう必要がない。
そんなことを考えながら鍋を洗っていたら、背中に視線を感じた。
この視線は昔に感じたことがあった。
そう。それはまだ娘が生まれる前。夫と暮らし始めたばかりのころ。
振り返ると夫がわたしを見つめていた。
母ではなく、女を見る眼。
ああ、男の本能を忘れていた。
妻には興味がないくせに、人妻には興味がある。
自分のものは大事にしないくせに、人に取られると平常心ではいられない。
簡単なことだった。安心感の中に、ほんの少しの危機感を混ぜておけばよかったのだ。
ふいに夫が後ろからわたしを抱きしめた。
振り返らなくても今のわたしにはわかる。
夫の顔には、うっすらと男の欲情が浮かんでいるはずだ。