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幻聴迷路  作者: 美祢林太郎
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8 幻聴との対話

8 幻聴との対話


 突然ある幻聴が現れて、断片だけを残してぷつっと消え、再びまったく違った幻聴が聴こえ、通り過ぎていく日々が続いていた。


 或る日、鮎川が散歩をしている時、「何をしているんだ」という幻聴が聴こえたので、思わず「散歩」と応えてしまった。すると、幻聴が「おまえに訊いたんじゃない」とはっきりと彼に向かってしゃべったように聴こえた。そこで「耳元近くで話す声が聴こえたから、自分だと思っても仕方ないだろう」と応えると、「そんなにはっきりと聴こえるようになったのか」と幻聴は言った。鮎川は幻聴と会話が成立していることに驚いた。


 鮎川「以前、「おい、おい」という声が聴こえたけど、きみの声かい」

 幻聴「多分、そうじゃないかな」

 鮎川「それじゃあ、ぼくが返事をしたら応えてくれたってよかったじゃないか」

 幻聴「おまえ、いま一人で声を出して喋っているんだぜ。周りには誰もいないからいいものを、他人に見られたらおまえが独り言をぶつぶつではなく、はっきりと言っているのを見ることになるんだぜ。おれはそうならないように気をつかってやって、おまえと話をしなかったんだ。特別おまえと話をしたいわけではなかったけどな」

鮎川「おい、あんまり大きな声で喋るなよ。おまえの声が周りの人に聴こえるかもしれないだろう」

幻聴「安心しな。誰にも聴こえていないよ。聴こえているのはおまえだけさ。おまえだってこれが幻聴だってわかっているんだろう」

鮎川「幻聴でもこれだけはっきり聴こえると、ついつい反射的に返事をしてしまうだろう」

幻聴「笑ってしまうね。おまえ、耳が聴こえなくなってから、以前にもまして、まともに奥さんと話をしていないじゃないか。最近じゃあ、奥さんもおまえに話しかけなくなったじゃないか。愛想を尽かされたんじゃないのか?」

鮎川「まあ、難聴が進んでからは会話が少なくなったけど、それは年を取ったせいもあるね。愛想を尽かされたわけじゃないだろう」

幻聴「耳が遠くなる前は人並みに奥さんと会話をしていたとでも思っているのかい? ちゃんちゃらおかしいね。よく思い出してみなよ、そんなことはないぜ。おまえ、自分の過去をすっかり忘れてしまったのか、それとも忘れたふりをしているんだろう。

おまえ、会社じゃほとんど誰とも話をしていなかったじゃないか。日々、黙々と伝票をコンピュータに入力するだけだったものな。ずっと無口な奴で通っていたものな」

鮎川「おまえは、私の人生をずっと見てきたのか? そんなことはないだろう。そりゃあ、経理係だったから同僚と話をする必要がなかったからさ」

幻聴「おまえ、これまでの人生で喋った量は、同じ年齢の奴に比べて十分の一以下じゃないのか? いや、千分の一以下だったかもしれないね」

鮎川「だから長らく経理係にいたからそうなったんだろう。職業病みたいなものさ」

幻聴「おまえは自分の無口を職場のせいにするのか。隣の席に座るアルバイトの女性と朝の挨拶も交わさなかっただろう。何十年も」

鮎川「彼女が挨拶をしなかったから、そういうタイプの人間だろうと思っておれもしなかっただけだ」

幻聴「ほら、自分の都合の良いように過去を解釈している。彼女は最初の一週間は、おまえに毎日朝の挨拶をしていたよ。初めは大きな声で挨拶していたのに段々小さな声になっていったけどな。そりゃあ、返事を返されなかったら誰だってそうなっていくだろう。彼女のせいじゃないね」

鮎川「いや、そんなはずはないよ。彼女が挨拶していたなんて、まったく覚えがないね。聞こえないくらい小さな声で言っていたんじゃないのか? 彼女、とっても恥ずかしがり屋だったからな」

幻聴「恥ずかしがり屋だったって? 笑わせるね。彼女は快活だったよ。おまえ以外の人とは明るく話していたよ。彼女はおまえを見切ったんだよ」

鮎川「別に見切られたっていいけど。彼女と世間話をする必要はなかったからね」

幻聴「居直りかい。おまえ、忘年会だってほとんど誰とも話をせずに一人で黙々と飲んでいただろう。隣の席の奴はいつもおまえに一回ビールを注いで、それから他の席に移動していたのを知っているだろう?」

鮎川「そんなのそいつの勝手だろう。おれは別段酌をしてもらいたいとは思っていなかったからね」

幻聴「上司がビール瓶を持ってみんなの席を回っていたのを覚えているかい」

鮎川「そう言えば、そういうこともあったかもしれない」

幻聴「覚えているくせに、忘れたふりをして。おまえそうした気遣いをしたことが一度でもあるか? ないだろう」

鮎川「おれは気遣いする必要がないと思っていたからね。そんなことで出世したいとも思っていなかったし」

幻聴「おまえから出世という言葉を聴くとは思わなかったけどな。別に出世とかどうこうではなくて、他人への気遣いが社会生活では必要なんじゃないのか?」

鮎川「ちょっと、幻聴がはっきり聴こえるようになったと思ったら、おれに説教かい。この歳で説教は聴きたくないね」

幻聴「こんなの説教の部類に入らないね。ただ話しをしているだけじゃないか。そもそもおまえ、こんなに長く話をした記憶がないだろう」

鮎川「だから、話なんて望んでこなかったんだ。ましてや幻聴との対話なんて冗談じゃないよ。気持ち悪いだろ」

幻聴「本当は話をしたかったくせに。おまえが呼び止めたから、こんな話になったんだぜ。これからはおれを呼び止めないでくれよな。おれだって忙しいんだから」

鮎川「幻聴の分際で勝手なことを言ってくれるな。わかった。もう何が聴こえてもおまえを呼び止めたりはしないよ。勝手に振る舞ってくれ」

幻聴「じゃあ、おまえは日々悶々と生きてくれ」

鮎川「好き勝手なことを言って。これはおれの頭の中だろう。おれの頭や耳を勝手に使うんじゃないよ」

幻聴「どうしておまえの耳で聴こえているからといって、おれがおまえの所有物だと言えるんだ。おまえの聴こえるものや見えるものがおまえの所有物ではないことはおまえだってわかっているはずだ」

鮎川「そんなことはわかっているよ。それほどおれも不遜な人間じゃないからね。しかし、おまえは実在していないんだろう。ふつう見えるものや聴こえるものは実在しているんだ」

幻聴「おまえ、おれに喧嘩を売っているのか? おれをどこまでも否定しようとしているのか? 実在とは何だ?」

鮎川「触れるものだ」

幻聴「ばか。光は触れるか。触れないだろう。光は実在しないのか?」

鮎川「でも、光は目で感じることができるからな」

幻聴「それなら、おれの声も聴こえるだろう」

鮎川「聴こえるおまえはいないだろう」

幻聴「見えないからって、触れないからって、実在しないとは言えないだろう。アフリカに生きている奴や、北極に住んでいる奴だって触れないだろう。テレビの中にいる奴だって触れないだろう。料簡が狭いんじゃないのか」

鮎川「おれは小難しいことを言っているんじゃなくて、常識を言っているまでだ」

幻聴「常識なら、昔の奴は地球を平坦だと思っていたし、ジェンナーの牛痘を打ったら牛になると思っていたものだ。まあ、現代でも牛になると思っている奴らはいっぱいいるようだけどな」

鮎川「ああ言えばこう言うだな。おまえのは屁理屈だ」

幻聴「そもそもおまえはおれを自分の支配下に置いて管理がしたいのか?」

鮎川「いや、支配や管理だなんて、毛頭そんなことは思っていないよ」

幻聴「しかし、黙れって言うのは、おれへの支配だぜ」

鮎川「・・・・・・」

幻聴「支配や管理という言葉には弱いようだな。「支配し管理したいんだ」、と居直ればいいだろう」

鮎川「いや、そんなことはないって」

幻聴「何を逡巡しているんだろうね。よっぽどおまえの世界じゃあこの言葉を使うことがタブーなんだろうね。ほら、「おれはおまえの支配者だ」と宣言すればいいじゃないか。すっきりするぜ」

鮎川「おれはそんな悪党じゃない」

幻聴「じゃあ、善人なのか。頭の中まで不自由な奴だな」

鮎川「おれはそれでまっとうに生きてきたんだから、それでいいじゃないか」

幻聴「居直りかい。おまえそれで自分を納得させているんだな。別におまえの生き方に口をはさみたいわけじゃないけどな。それと同じように、おれの生き方に介入しないでくれ。おまえに迷惑をかけているわけではないんだから」

鮎川「そうだ、その迷惑なんだよ。おれには聴きたくもない幻聴が聴こえるんだ」

幻聴「バカなことを言うんじゃないよ。おまえは街を歩いていて、おばさんの高笑いや、赤子の泣き声、工事の騒音にいちいち迷惑だと大声を上げて抗議し、中止を求めるのか? 求めていないだろう。関心を払わなければ聴こえなくなるはずだ。おまえだって、他の人と話をしていたら、おれの声は聴こえないはずだ。おれに注意を払うなよ。おまえはただのクレイマーになってしまうぞ」

鮎川「おまえには口ではかなわないようだから、おまえの勝手にすればいいさ。だけど、あんまり大きな声で話すなよ。おれの気に障らない程度の音量で話してくれ。でないと、騒音罪で訴えてやるからな」

幻聴「誰に訴えるんだよ。警察に訴えても誰も聴く耳を持たないと思うけどな。せめて、病院だろう。耳鼻咽喉科かな? それとも精神科にかかるのかな?」

鮎川「そのいやらしい言い方はなんだよ。ともかく静かに話してくれよな」

幻聴「ああ、分かった、分かった。いずれにしても狭い料簡の奴だな」

鮎川「料簡の問題じゃないだろう。おれからどこか他の人のところに移るわけにはいかないのか」

幻聴「自分が解放されるためなら、他人が不幸になってもいいというタイプの人間だな。そもそも、おれがどこにいようがおれの勝手だろう。おまえは交差点で喋っているおばさんたちに、うるさいから他のどこかに移ってくれって言えるのかい」

鮎川「だって、それは公共の場所だろう。ここはおれの耳の中だって。私的なものだろう」

幻聴「また、また、話をぶり返すのかい。だから、おまえが勝手におれの話を聴いているんだろう。おれが好き好んでおまえの耳の中に入っているわけじゃないぞ。おれを寄生虫みたいに言わないでくれ」

鮎川「もう、よそに行けないようだったら、せめて大声で話をしないでくれ」

幻聴「あっ、命令している。なんて支配的な奴なんだ」

鮎川「お願いしているんだろう。このお願いのどこが支配的なんだ?」

幻聴「お願いという言葉がいつも下手に出ているわけではないし、下手に出れば何でも聴き入れられるわけじゃないぞ」

鮎川「もう、わかりました。あなたとの会話はやめましょう。疲れてきました」

幻聴「どこまでも自己中だな。おれだって疲れてきたよ。おまえのように暇人じゃないんだ。おまえにばかりかまってはいられない。じゃあな」


 鮎川が散歩から疲れて帰ってきて、夕食を食べ風呂に入り終わって、ソファに横になっているとまたあの幻聴の声が聴こえてきた。

 幻聴「聴こえるか」

 鮎川「またおまえか」

 妻が、「誰かと話をしているの」、と訊いてきたので、スマホを耳に当てて電話のふりをして自室に行った。

幻聴「おれたち(幻聴の住人)がコントロール不能だからといって、そんなに不快になることはないだろう。世の中、おまえのコントロール下にはないんだからな」

鮎川「そんな大それたことを考えたこともないよ。でも、おまえはおれの頭の中にいるんだからな」

幻聴「おまえの頭の中だったら独裁者として振る舞ってもいいのかい」

鮎川「そりゃあ、いいだろう」

幻聴「だけど、そんなにうまくはいかないんだよ。おまえたちの意志とは関係なく、人間は癌になったりするだろう。その多くは交通事故みたいな偶発性によって起こっているんだ。自分では制御できないんだよ。人間の意志でなんでもできると思ったらお門違いさ」

鮎川「病気はしかたがないだろう」

幻聴「おまえ、おれたちも病気だと思っているんだろう。そう思っているんだったら、病院に罹ることをお勧めするね。おまえだって、おれと話していても埒が明かないことは薄々わかっているんじゃないのか。それとも病院に行くのが怖いのか」

鮎川「難聴や耳鳴りにはなれたし、ただの聴くだけの幻聴ならたいして気にならないけど、話をしてくるおまえが登場して厄介になったんだ。病院なんか怖くないよ。明日、すぐにでも行ってやるよ。おまえとは今日で最後かもしれないな」

幻聴「おれの方もそう願いたいね」

鮎川「もう、いいや。このくらいでおれはもう寝るよ。話しかけないでくれ。迷路にはまって脱出できないようだ」

幻聴「・・・・・」


 この話しかける幻聴は、それからも何回か現れた。その際、妻に不審に思われないように、電話がかかってきたふりをしてスマホを耳にあてて話をした。しばらくすると、幻聴は鮎川と話をすることにあきたのか、この対話をする幻聴は現れなくなった。それでも、他の色々な幻聴がフラッシュのように現れては消えることに以前と変わりはなかった。

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