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幻聴迷路  作者: 美祢林太郎
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7 不快な幻聴

7 不快な幻聴

 鮎川が聴く幻聴はいつも楽しいものばかりとは限らない。暗い話も耳の中に入ってくる。それをヘッドフォンの下で聴いている。彼は幻聴を選ぶことができない。


 「ママ、助けて。ゴホ、ゴホ、ゴホ」と激しく咳き込み、「苦しい」と弱弱しい言葉が漏れている。子供が火事の中で助けを求めている。どこかに火事が起こっているのかもしれないと思い、ヘッドフォンを外して、窓を開けた。消防車の音は聴こえないし、火事も見えなかった。また、ヘッドフォンをしてしばらく火事の幻聴が聴こえるのを待ったが、二度と聴こえてこなかった。

 女の子の声は苦しそうだった。咄嗟におれは彼女を助けようと思ったのだろうか。過去に燃え盛る火事の炎を見たことがあるが、それを想うとそんな中に飛び込んでいく勇気をおれは持っていない。しかし、彼女の声が間近に聴こえた時、彼女を助けたいという衝動に駆られた。これは嘘偽りのない気持ちだ。だけど、火事を目の前にしたら、その中に飛び込んで行けただろうか。きっと飛び込んではいけなかっただろう。おれはそんなに勇敢な人間ではない。

 あの子はどうなったんだろう。火事で死んでしまっただろうか。それとも、おれの頭の中の作り事だったのだろうか。そうであって欲しい。だが、ああして火事で死んでいく子供は世間では珍しくないのだろう。おれの頭の中から子供の悲痛な叫びだけが残った。

 こんな嫌な幻聴を聴いた後は、おれは誰かに試されているんではないかと思うことがある。それはまるで芥川龍之介の小説『杜子春』のようにだ。おれは杜子春のように金持ちになりたいという願望をこれまで抱いたことはない。そんな欲のない人間の目の前に仙人がぶら下げる人参はないはずだ。それともおれの過去について、何かを反省しろと誰かが迫っているのだろうか? おれは平々凡々と生きてきた人間であって、反省しなければならないようなことはしていないはずだ。まさか、おれに良心とは何か、正義とは何か、生とは何か、というような哲学的な問いを発しているんじゃないだろうな。そんなの一番苦手なおれなんだ。良心や正義は何かわからないけれど、幸せは今の生活で十分だ。

 火事の中の子供の声を聴こえないふりをできるような図太い神経を残念ながらおれは持ち合わせてはいない。それに耳をふさいでも聴こえてくるんだからどこにも逃れられないじゃないか。遠くに逃れても小さな声になることはない。それなら、どうして他の人と話しをして注意を別の方にそらさなかったんだ。妻と話をすれば、子供の声を消すことは十分にできたはずだ。だが、咄嗟のことだったんだ。もし、冷静に判断できたならば、注意をそらしてその声を聴こえないようにできたかもしれない。おれはまったく冷静ではなかったんだ。あんなに真に迫る声を間近に聴けば、誰だって逃れることはできないだろう。おれは生来の人非人じゃない。

 おれはテレビ番組を選ぶように、好きなチャンネルに幻聴を合わせることができるようになりたい。できるならば心の温まる幻聴だけを聴いていたい。そんな贅沢が無理ならば、せめて感情を高ぶらせることのない無意味な音だけを聴いていたい。


 翌日、鮎川の耳に飛び込んできたのは、「では、消毒しますね」という言葉だった。病院の一室だろう。

 「痛くないように、最初に左目に麻酔を点眼しますね。右目にも薬が入って痛くないように麻酔しますね」。えっ、目の手当てをしているの。医者の声はするけれど、患者さんにあたる人は黙っている。何か喋ってよ。でないと、おれが治療を受けているみたいに思えるだろう。「それでは、左目に注射をします」。目に注射? 聴き間違いじゃないの? そんな恐ろしいことはやめてよ。

「はい、終わりました」。患者さん、そこにいるんでしょ。だから何か言ってよ。おれの左目に注射されたみたいでしょ。目に注射? 目の周りではなく、眼球の中に注射したの? そんな恐ろしい事が短い言葉で淡々と進行していったの。おれの左目じゃないでしょうね。おれの左目、開かないよ。お医者さんの他に、看護師さんか誰かいないの。眼球に注射なんか、おれの想像を絶していて、すごく猟奇的に思えるんだけど。

 あっ、思い出した。シュルレアリスムの映画でこんなのがあったな。そうだ、ルイス・ブニュエルとダリの『アンダルシアの犬』という映画だ。たしか映画の冒頭で眼球をカミソリで切る場面があったな。その他の場面はいくつもの断片的な話が繋がっていて、全体として脈絡のないストーリーだったな。恐ろしい夢を観ているみたいだった。最初観た時は気持ち悪くて、二度と観ないと思ったものだ。どうしてあんな映画を観たんだろう。今回はあの映画の再現みたいじゃないか。

 医者の声が聴こえなくなった。誰の声も聴こえない。『アンダルシアの犬』を思い出しているうちに、幻聴は止んだようだ。どうしてこんな恐ろしい場面をおれに聴かせるんだ。だれが選定しておれに幻聴を聴かせているんだ。まるで、だれかがおれを苦しめて楽しんでいるようじゃないか。もしかすると、幻聴はでたらめに出てくると思っていたけれど、誰か意志を持った者がおれに幻聴を聴かせることでおれの反応を楽しんでいるんじゃないか? その誰かって、神様? ばかばかしい。神様がいるわけないよ。するとおれはコンピュータゲームの中の一登場人物で、ある種のプログラムの中で動かされているの? これも考え過ぎだな。コンピュータのこともゲームのことも知らないのに、知ったかぶりをして、そんなことを考えてもしかたないだろう。幻聴が嫌だったら、一日中他の人と話をするか、本でも読んで神経を集中すれば、幻聴は聴こえないんだから、幻聴は自分の管理下にあるじゃないか。一つや二つ、嫌な幻聴を聴いたからといって、そんなに深刻になる必要はない。人生、喜怒哀楽の世界さ。不快なことにも少しは我慢しなければ。


 「被告人を無期懲役に処す」

 鮎川の耳に突然、そんな声が聴こえてきた。明らかに法廷の言葉だ。静寂の中で判事は一人で朗々と判決文を読み上げていた。その単調な言葉は耳に入ってこず、「被告人を無期懲役と処す」という言葉だけが頭の中でこだました。

 自分が被告人ではないよな。どこかの法廷の音声が入っているだけで、おれが被告人であるわけがない。これはいつもの幻聴なのだ。被告人は何か喋ったらいいだろう。被告人が喋ればおれは被告人でないことがはっきりするはずだ。本当の被告人、何か喋ろよ。おれが被告人になってしまうだろう。

 これはどこかで行われている裁判だよな。決しておれが頭の中で創り上げたフィクションじゃないよな。もしフィクションだとしたら、おれは過去に何かとんでもない罪を犯して、それがおれの潜在意識の中に納まっているのか。心あたりになるようなことは何も思いつかない。警察に厄介になったことは何もないじゃないか。でも、警察に厄介にならなくても、密かに罪を犯していたら。それも、無期懲役に値する程の・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。いや、思いつかない。物心がつく前に何かあったのか?

 おれは怖くて思い出そうとしていないだけじゃないのか。いや、今回はたまたま法廷の場面が出てきただけだろう。女子高生の会話のようにランダムに聴こえてくる幻聴の一コマに過ぎないんだ。落ち着け。冷静になれ。「無期懲役」は決しておれに投げつけられた言葉ではないんだ。

 気がつけば、判事の声は聴こえなくなっていた。自室の中で鮎川は冷や汗をかいていた。

いつものように聴き流せばよかったのに、おれはどうしてこんなに感情移入をしてしまったのだろう。良いことばかりをして生きてきたわけではないだろうけど、他人を傷つけるようなひどいことをしたとは思えない。当たらず触らずの人生だったんだ。それを自分は選んできたし、自分の生まれ持った性格や才能のなさによる必然的な結果だと思っている。

 あの時、被告が一言喋ってくれれば自分は傍観者でいられただろうと思った。それとも自分で被告席の映像を想像することができれば、自分が被告人ではないことがわかったはずだ。なぜ肝心な時に想像力が働かないんだ。それとも想像することが怖いのか?


 「いつか復讐してやる」

 深い恨みの籠った言葉である。こんな言葉を聴いては、復讐される当事者でなくても気持ちのいいものではない。それから時々違った声で「復讐する」という声が聴こえてきた。そのうち、鮎川という名前が聴こえてきた。

 「鮎川の奴、許さないからな」

 「鮎川にいじめられたから、おれの人生がぼろぼろになったんじゃないか」

 「鮎川に小学校五年生の時に、学校の裏で殴られたんだ。怪我はしなかったけど、鮎川と会うのが怖くなって、登校拒否になってしまった」

 「鮎川はどこに住んでいるんだ。見つけたら、半殺し、いや殺してやるからな」

 くぐもった声の背後からサンドバッグを叩く重い音が聴こえてきた。

 この鮎川はおれのことじゃないんだろう。おれは人をいじめたことも、殴ったこともないんだから。これはおれじゃないよね。

 幻聴が聴こえてくる向こうの世界は、実在しないのかもしれない。勝手な妄想の世界なんだろう。この鮎川はおれではなく、同姓の別人かもしれないし、どこにもいない鮎川かもしれない。その鮎川の責任をおれが取る必要はないよな。そもそも、この声の主だって存在していないんじゃないか? でも、万が一、この幻聴が現実にどこかにいる人から届いているものだとしたら・・・・・。おれはいつか襲われるかもしれない。突然そいつから襲われても、そいつが誰なのか思い出すことはできないだろう。おれに話す機会を与えてくれ。おれが一体何をしたというのだ・・・・・。

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